ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、
と絶対の確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見
解に注意を払わず、真実とともにのみ生きるだろう。
『私は在る』(p131)
http://tinyurl.com/s747ukosumosuさんからコメントをいただいて、アセンション館通信#401を読みました。
上記はその中からの引用です。
ニサルガダッタの言葉だそうです。
私は、ニサルガダッタの書いたものを読んだことはありません。
しかし、上記の文章には頷けます。うんうん。
以上。
で、終わると面白くないので、続けます。
最近、二冊本を読みました。懲りずに。(笑)
ひとつは惑星Xについて、もうひとつはシャンバラについて。
このふたつは知りたいなと思っていたので、詳しく書いてありそうなものを読んでみたのですが・・・。
どうもピンときませんでした。
ひとつは避難生活のことについて書いてあるし・・・。
確かに、備えあれば憂いなしですよね。
だから、これに関しては準備してなくて後悔したら自業自得ってことですから。
それでおしまい。
もうひとつは、希望的観測に自分の主張を合わせるという傾向にあるのではないのか・・・と感じたから。
私にもあります。
自分が信じているものになってほしいという「希望的観測」。
それに焦点を合わせて調べていけば、どんどんその証拠になりそうなものや、似たような意見が出てくるのが当たり前の世の中です。
こんだけネット社会なわけですから。
だから、真実ってものを探すとか、真実だけで生きるとかって、難しいなって思う。
昨日のNHKの番組では、(松ケンを見る為だけに「平清盛」を見たはずなのに、その流れでNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」を見てしまった)視覚野(脳内)が損傷している場合は、目を怪我していなくても見えないということを知ったし、
また驚いたのは、視覚野が損傷していても扁桃体では人の顔の表情だけは認識するってことだったんです。
だから、視覚野を損傷していて物が見えなくても、人の顔の表情(ポジ・ネガ)は認識できたんです。
実験でやっていました。
赤ちゃんは目が見えない時期ってありますよね。
でも人の表情は認識しているのかもしれない。
だから、見るって行為は結構深いことなんだなって思ったんです。
これって、デフォルトですよね、人間には。
判断というのは五感や六感、全体でするものだと思うんですが、主にマインドで行われているって思っている。
顔の表情だけを識別できる機能って何なんだ?
まあ、それはさておき。
視点ですが。
私は、私の視点で物事を判断しているにすぎない。
正しいとか間違っているとかを抜きにしても、好き嫌いを抜きにしても、取捨選択はしている。
それが何となくであっても。
他人には他人の判断基準がある。
他人の視点だ。
視点が広がれば、見え方は違う。
拡大すれば見え方は違う。
見ることだけに限らず、意識することなども含めて。
人間の器を大きくするなんてことも含めて。
いろいろな本があり、いろいろな説があり、いろいろな基準があり、いろいろある。
人の数だけある。
しかし、真実はどうか。
でも、真実って何だろう?
ここで登場するのが「あるがまま」という言葉だ。
これを入れてしまうとたちまち解決・・・・となるのかどうか。
上記の引用で言えば、「想像」する私の視点を入れてしまうと、たちまち「点」が現れてしまう。
「想像せずに、あるがままを見たり、受け入れたり、観照したり」すると、「点」はあるけど、なんとなく「自然な点、調和した点」のような気がする。
「全体のなかに溶け込んでいる点」でもあり、全体の一部でもあり、全体でもある。
「想像」する私の視点といえば、「自己主張する点」というか、「金平糖のようなギザギザな点」のような感じがする。
飛び出してしまう。
個として独立・・・・というよりも、幻想としての個が出現するような気がする。
そのような自分を感じるから。
幻想の中にぽっかり浮かんでいる孤独な個・・・という感じ。
私だけの想像でしかなく、私だけの視点だから。
孤独だ。
「想像という視点を入れない、あるがままの個」の場合、調和している感じがする。
全体に溶け込んでいるし、全体の視点も持てるし、全体にもなれる・・・ような気分だ。
この視点だ。
いくら視野を拡大させても、視野を広げても、いくら高−−−−−−−−−−−−−−−−−く飛んでも、
意固地な(笑)、主張する、「想像する私」の視点は変わらない。
器が大きくなっても変わらない。
意識も同じだと思う。
試しに、外に出てみたらいい。
太陽を思いっきりあびて、大地に寝転がって、走ってみたり、歩いてみたり、お弁当食べたり、手をつないだり・・・。
そんなことしていると、わかるかも。
懐に飛び込んでみるって感じで。
・・・いつもしてますって???
・・・・私だけですか。(笑)
でも、イベントじゃなくて、義務じゃなくて、仕事じゃなくて、
ただ、そうするんだよ。
子供がするように。
私の視点、他人の視点は違って当たり前。
いろんな説があって当たり前。
いろんな考えがあって当たり前。
いろんな人が居て当たり前。
結局は皆が同じ象をいろんなところから見ているという例え話になる。
どこから見ているか、どんな範囲で見ているか、色眼鏡をかけているか、
サングラスをかけているか、ヘッドフォンしてるか、
拡大鏡で見ているか、顕微鏡で見ているか、そんな感じ。
どこまでいっても同じ視点は得られない。
私とあなたがまったく同じでない限り、同一に見える感じる認識するなんてことにはならないから。
そのうち、象に噛み付いて、象に蹴られて踏まれて死んじゃうかもね。
象を知るには・・・・象になるしかない?
予言をする人の話も、その人の視点が入る。
象をどこから見ているかと同じ。
「希望的観測」を入れる場合、多くの場合は調査を重ねた人に多いが、真実からはより遠くなる気がする。
像を顕微鏡で見て、自分の分析結果を元に象を分析している感じ。
幽体離脱した人の話も、視点が入っている。
幽体離脱した先が象の上かもしれない。
どこまでいっても個人の視点だ。
全体の視点になるには・・・・?
全体ってどこ?ってことになる。
だから、不問。
わからないものは、わからない。
で、私は・・・・・、私として、生きている。
畳み込まれた次元のほんの下あたりの認識で。
またここに戻る。
目的もなく、
判断もなく、
幸せもないかわりに不幸もなく、
私は・・・・?いまのところ在るけど・・・・。
ないないづくし。
ゼロ・ポイントって、バランスっていうけど、ゼロ点だし。
ま、ブログを書いている私は今のところ存在している。