2012年01月29日

自分で創った現実だと気付くとき

今まで、
例のごとく、
頭で、
知識で、
思考で、
誰かの言葉で、

「自分の現実は、自分が創り出したものである」と、思ってきた。

どのレベルの自分でもいい。

実感が伴っていたかと言えば、
あったと無理めに納得していた。
諦めに近いかもしれない。
どうせ……、とか、
自分で責任をとらなきゃ、とか、
分相応とか、
判断しなきゃいい、とか、
比べたらキリがない、とか、
苦あれば楽あり、とか、
陰陽とか、
二元性とか、
達成に至るプロセスが楽しい、とか、

とか、だ。


でも、やはり、違うらしい。

言葉で説明するのは難しい。
レシピだけでは味はわからない。


完全になりたいのか。
完全であるのに。

完璧でありたいのか。
完璧であるのに。

そんなことも、言葉遊びに思えてくる。

どっちでもあるのだ。
ザックリ言えば。
矛盾しているのだ。
ザックリ言えば。
あり得ないことなのだ。
破綻した先。
二元性でもあり、一元でもあり、三元でもある。
ありったけの次元でもある。
欲張りみたい。


不調和でも調和。
いや、不調和が調和。
不完全でも完全。
いや、不完全だからこそ完全。

視点で言えば、
部分を見ながら全体を見る感じ。
部分と全体は同じだ。
反転できる。
部分は全体に含まれているのではない。
見え方の違いだ。
感じ方の違いだ。
全体は部分の総合体ではない。
全体と部分は同じだ。
言葉では明らかに矛盾しているけれど、矛盾があるのだ。


この次元は低次元かもしれない。
何にも出来ないように感じるし。
見えないものは見えないし。
不自由を感じるかもしれない。
超能力ないし。
もしかしたら、最低かもしれないし。
全て。
進化している?
かもね。
進化ということは、先があるということ。


不自由さの中に喜びがあるよね。
何でだろう?
皆と同じで楽しいと感じることがあるよね。
何でだろう?
何にも無いのに幸せだと感じることがあるよね。
何でだろう?
反対が大半かもしれないけど。


アンバランスの楽しさ。
バランスと同じじゃない?

切なさに、時に美しさを感じる。
はらはらと流す涙に、美しさを見る。


この領域にはいろんなものが畳み込まれている。
部分と全体。
ピラミッド型もあり、円もあり、メビウス型、クライン型、非線形型、平型、花びら型、虹型、フィボナッチ型、ファイ型、想像できるものは何でもありそう。
無限かも。
そう、無限型。(^∇^)


やはり、自分が生きたいように、
自分が創り出したいように、
自分が経験したいようになっている感じがする。

自分を信頼するとかって変な言葉だ。
だって他人みたいだし。
そんな言葉も、もう要らないかも。



posted by zone88 at 04:28| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月27日

シンクロニシティ

今日、サイトで新しいボディみたいなものをYoutubeで見ていた。
人類には500の型があるらしいみたいなものでしたが、ワークなどがあったので、ちょっと躊躇していた。
ザ・グループという団体のものだ。
以前、聞いたことがあったので、一応気になり見ていた。

よく、あなたは誰々ににているね、なんていわれることがあるでしょう、と。
それは、ボディの型だというのだ。
で、今は新しいボディに変換できるらしい。

ちょっと眉唾物だななんて思った。

その後、外出した。
そうしたら、あるおばちゃんがボソッと言った。後ろからだ。
「あれ、○○ちゃんじゃないの……。」と。
私はその人に会ったこともないので、知らん顔して通り過ぎた。
おばちゃんは、「あら、勘違いよね、○○ちゃんかと……」みたいな感じでその場は終わった。

で、家に戻ってから、気付いた。
これって、もしかして、シンクロニシティ?
ボディの型の話が出たばかりだし。
今まで近所で声をかけられたことなんか無かったし。
というか、似た人に間違えらること自体、しばらく無かったし。
ギョッとした。

なので、また、ザ・グループのいうボディの型に関してはもう少し調べたいと思う。
また、最近私の身体はどうも変化しているらしいと感じるし。

さて、どうなるか。

知らないおばちゃんだったけど、ちゃんと応えてあげればよかったな。
ちょっと後悔。(⌒-⌒; )
posted by zone88 at 01:43| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最近、あまり寒いと感じない

散歩しだしてからからかもしれませんが、最近はあまり寒さを感じなくなってきました。
以前と比べればってことですが。

散歩っていっても、大寒あたりはとても寒かったので散歩もしていないから、散歩のせいではなさそうです。
身体があまり「寒いーーーー」って感じがしないんです。
体温が上がってきたのかな、それとも身体が変化してきたのかな。

考えてみたら、片頭痛はここ二年くらの間で頻繁におこるようになってきた。
前は片頭痛はなかった。
これも身体の変化のせいかもしれない。
昨年あたりは片頭痛の薬に頼っていましたら、最近は頼っていません。
セロトニンを増やすように、太陽を浴びたり、散歩したり、バナナチップを食べたりしてます。
何でバナナチップかって?
バナナがいいらしい、それもバナナチップがいいらしいという噂に乗ったまでです。(笑)
美味しいし。


去年までホッカイロははなせなかったのですが、今はホッカイロなしでもOKです。
不思議だ。
こんだけ寒い日が続いているのに、身体は反対に暖かくなっている。

やっぱり、散歩しているせいかもしれませんね。
でもここ一週間くらいは寒い日が続いているので、散歩してません。
もうちょっと暖かくなってきたらまた再開しようかなって身体が要求しています。

posted by zone88 at 00:07| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月26日

クリーニングという考え

潜在意識系の開発とか、セミナーとか、本とかにはクリーニングという考え方がある。
潜在意識にある過去の記憶を消去するとか、そんな感じのものだと思いますが。

過去の記憶が浮上してくるから繰り返して嫌な事がおこる。
これはカルマという考えのも似ていますが、それをクリーニングしてしまえばもう浮上して来ないから、嫌な思いをすることはどんどん減ってくるというものだ。
無とか空とかゼロとかもそれと同じだと言う。


そうなのかな??
統合するってことはクリーンにするってことなのかな?
それとも、統合だからまさしくポジとネガを受け入れてゼロにするってことなのかな。
まあ、どっちもゼロといえばゼロですが。
ゼロって言っても、かたや経験がゼロになるのと、かたや経験が蓄積されているものとが出てくる。

私はどっちかといえば経験を蓄積している方だと思う。
みんな生きている人、全員そうだろうと思う。

クリーニングって、どこまでクリーニングすればいいのか・・・・。
そんなことを感じるのだ。
いつまでたってもクリーニングしきれないのではなかろうか。
ゼロになるまでクリーニングするのって、気が遠くなる・・・。
ちょこっとずづだと考えると、気が遠くなるどころか、卒倒してしまうかも・・・・。


生まれたばっかりだと別に問題ないかもしれないけど、こんだけ経験を蓄積してきた私たちだと、どこまでクリーニングしたらいいのってことになりはしないだろうか。
ということで、私はクリーニングたるものはしていない。
別に考えがあってそうしているんじゃなく、そうする必要をあまり感じないからだ。
自然にバランスをとっていると感じているから。
どっちにしても、振り子の法則でいえば、右に触れればかならず左に触れるから、バランスされるはずだから。
ゼロにしたら、・・・・・、まあそれも同じことかもしれませんが、過去がまた浮上してくるかも。
過去・・・?
どんだけアンバランスな過去があるというのだろうか?
ポジティブでもアンバランスだろうし。
それもクリーニングする。
ネガティブでもクリーニングする。
ゼロにする。

ずっとポジティブを感じたいなら、じゃあネガティブはクリーニングしなきゃいい。
だってネガはかならずポジに傾くから。
ってことになりはしないだろうか。
ずーーーっとポジティブでありたいっていうのが人間の欲望っていうか、根底にある。
誰でも幸せにずっと暮らしたいと思うから。
でもそこから脱却しないと、いつまでたってもアンバランスだと思う。


クリーニングは、仏教でいう煩悩をはらうっていうのと同じっていう意見もあるけれど、それって違うと思う。
煩悩を祓うっていうのは、統合のことじゃないのかな。
それは、バランス。
それは陰から陽へと振れる振り子を止めることじゃないかな。
静寂っていうか、ふり幅をどんどん小さくしていくってこと。
だから平常心とか冷静とか、ありのままってことになって、どんどん視野が上がっていくんじゃなかろうか。
仏教ではこの世は苦であるということも言うけれど、そこんとこはわかりません。
ある時点では「苦」だろうし、判断をなくせば「苦」という概念がなくなってくるから。
お釈迦様は中観思想というか、わからないものを延々と議論していることよりもまず目の前のことに集中しなさいみたいなことを言っていたと思うけれど。
考えても無駄なことは考えない。それよりも精一杯生きることだ・・・・みたいたいな。


どうもクリーニングって考えはしっくりこない。
いろいろやってみたんですよ、私なりに。
でも、結局疑問が残るばかりで、だんだん面倒くさくなってきたのでやめたんです。
どんどん点検するようになるし。
自分とか周りとか他人とかを。
それって、判断が入ることになるから、嫌気がさしたんですね。
クリーニングする対象を自分で選んだりすること自体がなんか変だなって。
でも、何でもかんでもクリーニングしていたら、寝る暇もない。(笑)
だから、結局は自然に任せるしかなくなってくる。


ということで、クリーニングってどうもまだわかりません。

ちなみに、これは思考や記憶、潜在意識とか無意識とかのクリーニングのことです。
クリーニング屋さんのことではありません。(笑)
posted by zone88 at 23:55| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 潜在意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

私の視点、それぞれの視点。

ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、
と絶対の確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見
解に注意を払わず、真実とともにのみ生きるだろう。
 
                     『私は在る』(p131)
                  http://tinyurl.com/s747u

kosumosuさんからコメントをいただいて、アセンション館通信#401を読みました。
上記はその中からの引用です。
ニサルガダッタの言葉だそうです。

私は、ニサルガダッタの書いたものを読んだことはありません。
しかし、上記の文章には頷けます。うんうん。

以上。



で、終わると面白くないので、続けます。

最近、二冊本を読みました。懲りずに。(笑)
ひとつは惑星Xについて、もうひとつはシャンバラについて。
このふたつは知りたいなと思っていたので、詳しく書いてありそうなものを読んでみたのですが・・・。
どうもピンときませんでした。
ひとつは避難生活のことについて書いてあるし・・・。
確かに、備えあれば憂いなしですよね。
だから、これに関しては準備してなくて後悔したら自業自得ってことですから。
それでおしまい。

もうひとつは、希望的観測に自分の主張を合わせるという傾向にあるのではないのか・・・と感じたから。

私にもあります。
自分が信じているものになってほしいという「希望的観測」。
それに焦点を合わせて調べていけば、どんどんその証拠になりそうなものや、似たような意見が出てくるのが当たり前の世の中です。
こんだけネット社会なわけですから。
だから、真実ってものを探すとか、真実だけで生きるとかって、難しいなって思う。

昨日のNHKの番組では、(松ケンを見る為だけに「平清盛」を見たはずなのに、その流れでNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」を見てしまった)視覚野(脳内)が損傷している場合は、目を怪我していなくても見えないということを知ったし、
また驚いたのは、視覚野が損傷していても扁桃体では人の顔の表情だけは認識するってことだったんです。
だから、視覚野を損傷していて物が見えなくても、人の顔の表情(ポジ・ネガ)は認識できたんです。
実験でやっていました。

赤ちゃんは目が見えない時期ってありますよね。
でも人の表情は認識しているのかもしれない。

だから、見るって行為は結構深いことなんだなって思ったんです。
これって、デフォルトですよね、人間には。
判断というのは五感や六感、全体でするものだと思うんですが、主にマインドで行われているって思っている。
顔の表情だけを識別できる機能って何なんだ?




まあ、それはさておき。

視点ですが。

私は、私の視点で物事を判断しているにすぎない。
正しいとか間違っているとかを抜きにしても、好き嫌いを抜きにしても、取捨選択はしている。
それが何となくであっても。
他人には他人の判断基準がある。
他人の視点だ。

視点が広がれば、見え方は違う。
拡大すれば見え方は違う。

見ることだけに限らず、意識することなども含めて。
人間の器を大きくするなんてことも含めて。

いろいろな本があり、いろいろな説があり、いろいろな基準があり、いろいろある。
人の数だけある。
しかし、真実はどうか。
でも、真実って何だろう?

ここで登場するのが「あるがまま」という言葉だ。
これを入れてしまうとたちまち解決・・・・となるのかどうか。

上記の引用で言えば、「想像」する私の視点を入れてしまうと、たちまち「点」が現れてしまう。
「想像せずに、あるがままを見たり、受け入れたり、観照したり」すると、「点」はあるけど、なんとなく「自然な点、調和した点」のような気がする。
「全体のなかに溶け込んでいる点」でもあり、全体の一部でもあり、全体でもある。
「想像」する私の視点といえば、「自己主張する点」というか、「金平糖のようなギザギザな点」のような感じがする。
飛び出してしまう。
個として独立・・・・というよりも、幻想としての個が出現するような気がする。
そのような自分を感じるから。
幻想の中にぽっかり浮かんでいる孤独な個・・・という感じ。
私だけの想像でしかなく、私だけの視点だから。
孤独だ。

「想像という視点を入れない、あるがままの個」の場合、調和している感じがする。
全体に溶け込んでいるし、全体の視点も持てるし、全体にもなれる・・・ような気分だ。
この視点だ。

いくら視野を拡大させても、視野を広げても、いくら高−−−−−−−−−−−−−−−−−く飛んでも、
意固地な(笑)、主張する、「想像する私」の視点は変わらない。
器が大きくなっても変わらない。
意識も同じだと思う。


試しに、外に出てみたらいい。
太陽を思いっきりあびて、大地に寝転がって、走ってみたり、歩いてみたり、お弁当食べたり、手をつないだり・・・。
そんなことしていると、わかるかも。
懐に飛び込んでみるって感じで。
・・・いつもしてますって???
・・・・私だけですか。(笑)
でも、イベントじゃなくて、義務じゃなくて、仕事じゃなくて、
ただ、そうするんだよ。
子供がするように。


私の視点、他人の視点は違って当たり前。
いろんな説があって当たり前。
いろんな考えがあって当たり前。
いろんな人が居て当たり前。

結局は皆が同じ象をいろんなところから見ているという例え話になる。
どこから見ているか、どんな範囲で見ているか、色眼鏡をかけているか、
サングラスをかけているか、ヘッドフォンしてるか、
拡大鏡で見ているか、顕微鏡で見ているか、そんな感じ。
どこまでいっても同じ視点は得られない。
私とあなたがまったく同じでない限り、同一に見える感じる認識するなんてことにはならないから。
そのうち、象に噛み付いて、象に蹴られて踏まれて死んじゃうかもね。
象を知るには・・・・象になるしかない?



予言をする人の話も、その人の視点が入る。
象をどこから見ているかと同じ。
「希望的観測」を入れる場合、多くの場合は調査を重ねた人に多いが、真実からはより遠くなる気がする。
像を顕微鏡で見て、自分の分析結果を元に象を分析している感じ。
幽体離脱した人の話も、視点が入っている。
幽体離脱した先が象の上かもしれない。

どこまでいっても個人の視点だ。
全体の視点になるには・・・・?

全体ってどこ?ってことになる。
だから、不問。
わからないものは、わからない。

で、私は・・・・・、私として、生きている。
畳み込まれた次元のほんの下あたりの認識で。

またここに戻る。


目的もなく、
判断もなく、
幸せもないかわりに不幸もなく、
私は・・・・?いまのところ在るけど・・・・。

ないないづくし。
ゼロ・ポイントって、バランスっていうけど、ゼロ点だし。

ま、ブログを書いている私は今のところ存在している。
posted by zone88 at 01:18| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

太陽のような、地球のような

先日、条件付きの愛は偏っているんじゃないかなんてことを書きました。
それは、太陽や地球のことを思ったからだ。
自然だ。
太陽は誰の上にもあり、地球は誰とも密接につながっている。
自然は猛威を振るうことがあるけれども、それは祟りだろうか?
自分の判断で良い悪いを決めているだけかもしれない。
雨が降ることは良いの?悪いの?
雪が振るうことが良いの?悪いの?
猛暑は良いの?悪いの?
風は?
台風は?

程々であれば良いの?悪いの?

太陽の光がなければ、私たちは生きていけない。地球がなければ、私たちは生きていけない。他の惑星や恒星はどうかな?
たぶん、いろいろ複雑に絡み合って、今、私たちが生きていける環境ができあがっているのだろう。
適者生存かもしれないし。
わからないけれど。

私が神社に行く時には、そんなことに対して御礼をする。
お願い事をしには行かない。
また、崇拝もしない。
ただ御礼をする。
依存はしない。
自分を明け渡すこともしない。

大自然に対して感謝する。

それだけだ。

浄化だ、なんて言い方もあるけれど、そうなったらそれを受け入れる。
浄化かそうでないかも、判断でしかない。
誰が決めるの?そんなこと。

誰かが言うだろう。
それを乗り越えるだけの強い自分になりなさいと。
でも、強くなれなくて、乗り越えられなくても、生きている。
弱くても、そんな自分を愛せるだろうか?
乗り越えられなかった自分を愛せるだろうか?
そんな自分を受け入れられ、愛せるだろうか?
甘えではなく。
依存ではなく。
犠牲者ではなく。


太陽はそれでも毎日私たちを照らしてくれる。
地球はそれでも毎日私たちを養育してくれる。
風が吹き、雨が降り、雪が降り、花が咲き、作物がとれ、…。

どんな悲惨な人生でも、自分は調和の中にあるのだと信じられるだろうか。
どんなに不調和に見えても、自分は完璧であるのだと信じられ、愛せるだろうか。
そんな自分を愛せたら、きっと他人も同じように愛せるだろう。

人間って不思議な存在だ。

太陽のように。
地球のように。

無条件の愛って、条件付きではないことだ。
判断なく、差別なく、無条件に。
懐深く。


本当に無条件の愛で相手を見ることができたら、自分自身、フラストレーションを感じることはないだろう。
形ばかりで、私は他人に対して平等で差別はしないと口先だけで言っているとしたら、ひどく自分で不公平感を感じ、物凄い怒りを自分の中に溜め込むことになるだろう。
聖人君氏のふりは出来ないのだ。
無理だ。
自分がよく知っているのだから、自分が条件付きの愛を相手に押し付けていることを。
また、不公平は許されないことなのだと、人を裁いている自分を自覚しているのだから。

判断しないというのは、本当に判断できないと自分で心から思えたときにしかわからないものなのだろう。
その為には、自分が相手から無条件に受け入れられたとき、無条件に愛されたとき、無条件に許されたときに初めてわかるものなのかもしれない。

母の愛ですか。
涙でわかるものなのかもしれない。
そこには言葉はない。


posted by zone88 at 23:46| 東京 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

年表を書いている夢

昨日は久々に頭痛が酷かった。
片頭痛。
でも、夢を三つも見ました。
しかし、片頭痛がまだ酷いので、全ての記録は出来ない。
今は、痛さで眠れない。
片頭痛のクスリは……、ない。
がっかり。


でも、今となっては記録が遅れたので、段々薄れてきている。
ひとつは、サスペンス小説のネタにしてもいいかもしれない、と思った。
今も微かに覚えているので、明日、覚えていたら書こうと思う。
今日は、別の夢。


※記憶が薄れて忘れてしまうといやだな、と思うものだけ記録する。


友人と二人で居る。
課題めいたものをしている。
友人はまだ完成していない様子だ。
私はあるものを全て書き写して、終了したようだ。まるで写経が終わったような感じ。
そして、私の体験談を書いたものも終了したようだ。
それが変な感じなのだが、神殿みたいなところで何かに向かって話し、感じたことを、事細かに書いているのだ。
あまりにもリアルな描写に驚いたが、内容は忘れてしまった。
今は、年表作成にとりかかっている。
私に関するものだ。

全て終わってしまった。
今は、年表づくりだ。

そんな夢。

posted by zone88 at 02:55| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

神道系の厳しさ

なんか、変なタイトルですね。(^_^;)
日本の神様、神道系ですが、最近特に感じるのは厳しさです。
昔から厳格さや厳しさは感じていましたが、最近そういうのが特に目立つような気がします。

キリスト教系はその点、愛という言葉に象徴されるように、ソフトだ。


厳しい、厳格であるというのは、時には恐怖を感じるものだ、
「善徳を積まなければ救われない」というような。今は善悪、光と闇を統合するという傾向に変わっているとは感じますが、しかし、まだその奥には“人を寄せつけない”、“冷たい”、よく言えば厳格な何かを感じる。

これは、人気のあるふたつのサイトをみていて感じたことです。どちらも神の名前がよく出てくるから。
日月神示なんかは、大本教に似ていて、艮の金神の言葉らしく、厳しい。(^_^;)

ただし、光の住人は大丈夫らしいです。
でも、私なんかはそんなこともわからない。
だから、獣指定かもしれないですね。

私にはサッパリわからないこともある。
まあ、そんなに知識を詰め込んでもどうしようもないです。出て行くばかりだし。
霊的に上な人や、光の住人は、いろんなことがわかるんだろうし。
でも、私にはわからない。
知っても、何の役に立つのかもわからないし。


神社にお参りするときにも、良い子でいればお願い事を聞いてくれる神様に祈っているのであれば、たぶん、方向が違うのではないかと思います。
そこには、条件付きの愛しかない。


条件付きの愛、
無条件の愛。

よく、考えてみれば、条件付きの愛は偏っており、バランスを欠いていると感じられないだろうか?
posted by zone88 at 22:46| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月16日

直観、直感で決めてる

昨日、惑星Xについて、いろいろ調べていた。
でも、実際に目に見えている訳ではないから、まだ憶測ばかりです。

いろいろ調べていると、変なサイトにも出くわす。
動画なんかもある。

言ってること、書いてあることというのは、文章だったり本だったりしますが、相手の顔が見えない。
だから、勘に頼る。
行間を読むというやつだ。

私の場合、目に見えるもの以上に、感じ取るものを大切にしている。
書かれているものの背後にある何かを感じる。
開かれた自分でなければ、なかなかつかめない。
頭が知識で、既成概念でいっぱいだったりするとわからなかったりする。
何か参考になるものは……。

あります。
恋愛とか、家族関係とか、友人関係とか、人間関係だ。
相手をどの位知ったら、あなたは相手を信じられるだろう?
履歴書?
住民票?
肩書?
知識量?
見た目?
紹介?

結局、どこまでいっても相手を知り尽くすことは出来ない。
じゃ、どうするか?
それは、直感だったり、何となくだったりだろう。縁といわれるものだったり。偶然といわれるものだったり。

恋に突然落ちる。
雷にうたれたような衝撃。
何故か涙が止まらない。
抑えきれない感動。
伝わってくる温かさ。
いろいろ。

そんなものと同じだ。




話題を戻して、惑星X。
昨日見た動画の人の本を本屋でチラ見したことがあった。
陰謀系だとおもったから、今でもその人の本は読んだことがない。
でも、聞いた事のない情報があったので、動画検索をしてみた。
DVDのダイジェストがありました。
見たら、なんか、……、
第一印象が、金正日みたい……。
そう思いました。
で、……、やめました。
本を買うのもやめました。

ある女性の本も話題になっていますが、
第一印象で、やめました。
形容は出来ないのですが、高慢な感じ……、とでもいいましょうか。
私にはそう感じられたので、情報はさておき、触れてもいません。
まあ、判断は禁物ですが。
尊重する……ということで。


しかし、みかけだけではなく、その奥に潜む何か得体の知れないものを感じ取るにはどうしたらいいのか?
それは、経験だ。
どれだけの者に、物に、騙されたか。
私の場合は、数知れずだ。(^_^;)
甘いマスクの下に隠された何か。
甘言の奥に隠された仕掛け。

しかし、その人も、その物も、その奥に潜むものに囚われているのだから、ある意味嘘はないのだ。
だから、ますますややっこしくなる。
だから、相手は、……、究極、責められない。
見抜けない私の責任となる。


だから、どこまでいっても、私のことでしかなくなり、
外に原因はなく、その出来事をツールとして、
何かを、
しようとしている、
わ・た・し…が、
ただ、
ここに、
生きているだけだ。




行間、
間、
空間、
聴こえざる声、音、
見えざる何か。
つかめない何か。
正統性の陰に潜むもの。



一枚の絵を観てみよう。
例えば、ゴッホのヒマワリ。
これは、本当にゴッホが描いたのか?
本当にゴッホが描いたとして、それは芸術か?
何十億という値段がついている。
あなたには購入できる財力がある。
じゃあ、購入しますか?
隣の人はもっと高額で落札するらしい。

まあ、落札できたとして、
それは、
本当に、
ゴッホが描いたのでしょうか?
芸術的な価値はどうでしょうか?

真贋以上に、
あなたの心は動いただろうか?
真贋は、オークション会社や鑑定家の折り紙付きだ。
でも、
心は何と応えたか?

それは、
それは、
それは、……。






散歩をして、直感に従って歩いていると、楽しい。
ストレートに楽しいと感じる。
帰ってからミカンを食べると、「なんて美味しいのだろう」と思った。

自然から離れると、動物的な勘も、人間的な直感も、薄れるような気がする。
リラックスすることって大切だなと思う。
別に、何かをしなければならない訳ではなく、ただ自然体で、自分でいれさえすれば、それでいい。
あとは、自然に向こうからやってくる。
自然に、わかる。
自然に、気付く。

何でわかるの?
何でかな?
わからない。(((o(*゚▽゚*)o)))

理屈は二の次、でも、大切だ。
でも、主じゃない。
やっぱり、ハートだね。
以心伝心。
テレパシーじゃない。
何となく伝わってくるものだ。


でも、
だから、
どうだというのだろう?

どうということもないのだ。
別に、たいしたことじゃない。
知らなくてもいいし。
知ってたらどうにかなる保証などないし。

だから、
なるがままに、
あるがままに、
なすがままに、
ということになり、

また、毎日散歩に出かける。( ´ ▽ ` )ノ
楽しいからね。


posted by zone88 at 22:46| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3333に遭遇

いつものように散歩に出かけました。
地図はなるべく見ないで、勘で歩きます。

自由に。

時間、
方向、
歩き方、
場所、
そんなものから自由になって、
ただ歩く。
いわゆる散歩だ。(^◇^;)

行ったことのない場所に足を踏み入れると、身体が緊張します。
良い意味での緊張感。
そして、勘で行く方向を決める。

私が歩いている場所は住宅街なので、まっすぐに歩いているようでも、そうではない。
だから、知らない土地に入り込むことになる。


土のある場所では、土に触れる。
足の感触だ。
今日は土がフカフカしていた。
先日は霜が張っていて、パキパキ音がした。

水の音を頼りに、水のある方向に進む。

今日は曇っていて、星は見えない。
星が見えないと何か寂しい。


ナンバーというもの。
ときどき見かける。
ゾロ目とか。


今日は、久々にゾロ目を見つけた。
3333
クルマのナンバー。
33-33
近所の車ではない。
他県の車だ。


意味は何かな?
数霊。
ゲマトリア。
きっと何かあるのだろう。
数字は言葉。
世界共通だし。
聖書の意味を解くのもゲマトリアらしいし。


今日も新鮮な空気を沢山吸って、気持ちがいい。
家に帰ってから暫くは暖房なしでもOKなくらいに身体がポカポカしている。


最近気になるのは、惑星X。
半年前くらいに惑星Xが近づいているような気配を感じた。
でも、気配だし、確証もない。
褐色矮性だというから肉眼では見えないだろうし。


私が感じていることだから、まあ、他人にはあまり関係がない。

惑星Xが月の隣あたりに出現したら、どうなるだろう?
褐色矮性といえども無気味に光って目に見えるだろう。


ペテルギウスの爆発もニュースになってますね。大量のニュートリノが地球に降り注ぐらしいです。夜も昼のように明るい日が何日も続いたらビックリするよね。
とにかく巨大なペテルギウス。
赤色超巨星という年老いた星。
太陽より大きい。
直径は太陽の一千倍。!(◎_◎;)
でもオリオン座の方向にあるから、地球では太陽や月と同じく位の大きさに見えるらしい。
光ったらの話です。
超新星爆発が何百年ぶりに見られるだろうか?

posted by zone88 at 20:53| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする