2012年06月27日

優しい気持ち

私の中での変化ですが、
最近、自分の中での怒りというか、憤りとか、そんなものが少なくなってきた。
優しい気持ちになっているんですね。

人間関係で、どうしても怒りが内側から出てくることってありますよね、誰でも。
それを抑えて、優しい顔してニコニコしてたりする。
イライラとかも。

でも、それって、気付いている人は気付いている。
相手に伝わっているってことです。
私の経験から言うと、私は怒っている人とか、イラついている人とか、そんな気もちを抑えている人の近くに行くと、
何となくそんな感じが伝わってきてしまうので、そんな時はその人から離れてしまいます。
近寄れないというか・・・。

私の気持ちの中でですが、
心の中ですが、
最近は優しい気持ちが出てきます。

仕事関係のことが多いですが、今までだと結構嫌な気持ちになっていたことでも、
どっちかといえばおおらかに受け取れるんです。
だから、相手に対しても優しく対応できる。
犠牲者ではなくてです。

仕事にしても、嫌々ながらやるのか、楽しみながらやるのかの違いになる。
どっちにしてもやらなければならないことだったりするので、
それを楽しみながら、いろいろな発見ができながら、自分の経験にできながら仕事ができるので、
「すごいなあ」って思ってしまいます。

そうすると、自然に感謝の心が出てきて、身体も喜んでいるような気がします。
実際に身体は前より軽いし。

これは、最近の傾向で、何があったのかって言うと、ハートを中心に生活を始めてからなんです。
ハート、心、気持ちなんてのを中心にして。
頭で理論で、思考で、予定で、・・・・ってなことではなくて、
今、ハートで感じてどんなことができるのか、どんな発見があるのか、
どうやったら優しく、思いやりを形にできるのか、
無条件の愛ってどんなことなのか・・・・みたいなことをハートを中心にして生活するって感じで。

今まで、どうしても生き方がギクシャクしていたのは、社会、特に社会とか会社の資本主義の常識みたいなものに無理に合わせようとしていたからなんですね。
だから、どうしても自分の中から出てくる生き方とは違っていた。
「こうするのが当たり前なんだ」とか、「働くってことはこういうことなんだ」とか、そんな常識とか型にはまった考えは捨てていたつもりだったけれど、まだ自分の中にあったんだって気付いた。

それは、ハートを中心にしたから。
ハートを中心にすると、今に集中するので、先とか過去とかを考えなくなります。
今、どうするのか、
今・・・、ですね。

心地よいです。
食事をしていても、お風呂に入っていても、夜寝る前も、仕事をしている時も、歩いている時も、
ただ、朝起きたときだけまだ頭痛がしますがね。
朝、爽快に起きることができたら嬉しいのになって思います。

そんなことで、ハート中心の生活をしています。
ハート中心って、自分の中にある純粋な何かを感じることとか、感謝しているとか、楽しむとか、
好奇心を感じるとか、相手が喜ぶことをするとか、そんな小さなことからですが。
拡大すれば、家族であったり、社会であったり、国や世界や宇宙や・・・・ってことになります。
でも一番最初は自分。

生き生きしてきた感じがします。
心も身体も。

優しさとか、思いやりとか、純真とか、誠実とか、笑いとか、明るさとか、
やっぱり気落ちがいいし、喜びですね。
喜びを広げる。
自分の中で広げる。

太陽にまっすぐ向いているひまわりのように。
ニコニコ。
ニコニコ。
posted by zone88 at 00:41| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月24日

自分が信じているものが見える

現実に見えている世界もそうですが、想像の世界であっても、自分が信じているものしか見えていないんじゃないのかと思う。

よく、天国はあるのか?、地獄って本当にあるのか?悪魔っているの?なんて話がありますよね。
たぶん、なんらかのきっかけで自分が信じてしまったらそれは実際に現れてくるんだと思うんです。

あくまでも想定の話です。
だから、人の数だけ現実があるってことになるし、人の数だけ見えない世界もあるし、人の数だけ宇宙も存在することになる。
並行宇宙があるって信じていれば、簡単に並行宇宙にヒョイと移動できちゃうかもしれない。


こんな話題になったのは・・・・・ですね。
同じものを見ているのに、見え方が人によって違うからなんです。
極端に言ったら、「死んであの世に行ったら、閻魔様に出会ったって人と、観音様に出会ったって人が居た」とか。
同じ存在を見ているはずなのに、一人の人の目(肉体がないのに)には「閻魔様」、もう一人の人の目には「観音様」が映っていたということ。

これは、鏡の原理で、
あくまでも、自分を映し出しているに過ぎないという考えです。
だから、閻魔様に出会わないないように「心を磨く」なんていう本末転倒っぽいことになります。
恐怖が土台にあるから。
たぶん、この恐怖を土台にしている限り、この閻魔様に出会う出来事はループするだろう。

ねずみのループ

ねずみが、
車輪の中、
延々と、延々と、
無邪気に、
走る。
いつまでも、車輪は回り続け、
壊れることなく、
ねずみが死ぬまで、
延々と・・・・・・・。

まるで恐怖の童話のようだ。
「ねずみの車輪遊び」ってな感じのファンタジー、実は恐怖の車輪物語って感じの。



じゃあ、恐怖が土台にないってどういうこと?
文字通り恐怖自体がなくなることかもしれませんが、この「恐怖」という感じ方、概念、ラベル付け、定義、そんなものがますます「恐怖」を大きく、現実のものにしてしまうのではないかと思うんです。

無条件の愛に照らし合わせれば・・・・・・、
「恐怖」というもの自体も実はその範疇に入る。
全てが愛する対象になるわけです。
っていうか、もともと「恐怖」なんてものはないってことになるのかも。

包み込むってことかも。
受容とか。
そうすると、「恐怖」って自分の中にしかなかったってことに気がついて、それが変容する。
やってみてわかったんですが、コアトラなんかもそんな感じですね。



理論にはまると、ますますこれは強固になる傾向がある。
実証済みだ。
「これはゲームだ」というゲームを繰り返す傾向のループに転換されただけだ。

いつになったらこのループから抜け出すのか。
頭をもぎ取ったらどうか。(笑)
でも、頭をもぎ取っても、たぶん、頭なしでループしているだろう。
だって、人間は頭が司令塔じゃないから。
「頭なしゾンビ人間もどき」がループ街道まっしぐら・・・・・というヘンテコリンな物語の住人になる。

二元性の世界「光と闇」とか、そんな世界を抜け出したいという願望は、ますますその世界にはまり込む罠をしかける。
二元性?
もう抜けてるでしょって気がつくのは抜けたときだけだ。
二元性もろとも飲み込んだ後ってことだ。
そうすると「頭なしゾンビ人間もどき」が二元性という怪物を口がないのに飲み込んで、変貌するというまたまたヘンテコリンもりもりの物語にはまり込む。


何でなんだ・・・・。
それは、
たぶん、
バランスがとれていないから。
中心、センターが機能していないからだ。

上じゃない。
センターだ。

頭は上にあるけど、センターじゃない。
センターにはハートがある。
バランスはハートのセンターで。

なんとなく、
こんな感じでセンターに戻ると、
バランスが取れてくる。


そうすると、見えてくるものが変ってくるし、
全てが変化してくる。

とにかく、頭脳や理論ばかりでは、本当に頭でっかちになって、バランスが悪い。
その頭脳も重すぎて体が耐えられなくなる時期がきて、そのうち頭がポロってもげちゃうときが来る。
そうなるとますますバランスを崩して、どうしようもなくなる。

それも、「体験」だ。
どれもこれも、「体験」だ。


ほんの数パーセントの小さな弱々しい「私」が、「意志」をもったとき、
すごいことが起る。
それはただ、「生きる」ってことだったりする。
「生きるって何?」とか、
「美味しいもの食べていると嬉しい」とか、
「皆で笑っていると嬉しい」とか、
そんな小さな「何か」素直なもの。

だから、人間は皆無限の可能性を持っているんだなって思う。
あの人も、この人も、生まれたばかりの赤ちゃんも、療養中のご老人も、みんな、みんな。

「無限の可能性を持つのが」人間なんだ。
このことが言葉だけじゃなくて、本当のことだと感じられるように!
思うだけじゃなくて、本当のことになるように。





posted by zone88 at 21:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

無限で永遠

先ほど本を読んでいたら、今までにない感覚を味わった。

赤と金が少し混じったような、物凄い光の中に居るのだ。
見ているというよりも、その中に居る感じだ。

そして、その本を読んでいる。
半覚醒状態だと感じた。
何故に目を閉じているのにその本を読めるのか?
そう感じていたからだ。
手はしっかりと本を持っていたし。
そして、読む。
たぶんその本のエネルギーを感じているのだろう。

いろんなことに、説に共感してしまう私は、どれも一理あるなと思ったりするし、またその世界にドップリと浸かることも出来る。
まるでファンタジーの世界に入り込むように。
そして、その世界を体験する。

その世界よりももっと魅力的な世界をみつけると、その世界に今度は入り込む。
まあ、長続きする物語は少ないけれど。
抜け出すきっかけは、「限界を感じること」だ。
大体似通った傾向だ。
これ以上進めないとなると、私の中の何かが別を探し出そうとする。

行き着く先は、
無限。
永遠。

限界を感じること自体、おかしいのだと思うから。

私たちは、
無限で永遠な存在だと思うから。
そして、自由だ。
posted by zone88 at 02:21| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月20日

扉の向こう

永劫とも思える「私」の内部世界の中で、私は迷子になってしまっていたようだ。
どの方向へ行っても「私」しかいない。
あらゆる方向へ向かってもどれもが「私」であり、その「私」に何かを尋ねても同じ答えしか返ってこなかった。

何を見なければならなのか「私」は。
まだ見ぬ「私」がいるのか。
それとも堂々めぐりなのか。

体の中に癌細胞やウイルスなどが侵入しても私はそれを「私」だと思い込んでいたのかもしれない・・と思う。
全て私なのだと。

あなたをこの世界に存在させてあらゆる方向へ動かそうとする存在は誰なのか?
私は「私」に聞いた。
でも、「私」は私だからわからない。

どこかの空間にひとりたたずんでいる。
あらゆる方向に移動することはできる。

でも、「閉鎖された空間」に閉じ込められている感じがしていたたまれない。

どこからか聞こえる声。
「ここはまだ閉鎖空間だ」って。

扉は、入り口は、異空間は、どこにある?
探査しても、どこへ行っても「私」に出会う。

そうだ。
私の内部に入ってみよう。
内部の奥深くに。
深く、深く。

そこは、やはり底なし沼だった。
文字通り。
そこにも「私」が居て、私はその「私」に聞く。
どうしてここに居続けるのかと。
「私」は、「どうしてかわからない」と言う。

ここは二元性の世界だから、光と闇があって当然なのだと言う。
底なし沼で「私」は光と闇を統合しようとあがいていた。
でも、浮上できない。
そこはもともと沼だから。


私の全てを捨ててみようと思った。
ただ、「空」になる。
空っぽになる。
長い旅でこびりついてしまったいろんなものを全てここに降ろしていこう。


扉がみつかった。
行ってみよう。
もう私は冠もつけていないし、体には矢も刺さっていない。

軽くなった。
ふわふわする。

後生大切に持ってきたものって一体なんだったんだろう。
私だと思っていたものって何だったんだろう。
私は「私」は、『私』は・・・・・・って。

私は私の持ち物を私だと勘違いしていただけなのか?
だって、まだ私はここに居るし。

扉を開けて、その中に入ろう。
扉はいつもそこここにあった。
何で見えなかったのか。
何でだろう。
探してきたのに。
見ようとしてきたのに。

何でだろう。


posted by zone88 at 23:43| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月19日

ネバーエンディングストーリーじゃないけれど

潜在意識のカテゴリに投稿しましたが、何でかというと「潜在意識」がどうも関係している感じているからです。
以前「潜在意識」関連で自分の思考、特に過去の記憶が再生されて現実が創造されているので、
その過去の記憶を修正したり消去(ホ・オポノポノ)したりしてみましたが、どうも長続きしなかったんです。(笑)
笑い話じゃないって?
そうかもしれません。
しかし、実際長続きしている人はどのくらいいるのでしょうか。
強烈に何か実体験があったとか、そういう人にとっては続ける理由がみつかるのかもしれません。

私の場合は、どうも脳機能そのものをコントロールしている力の方が大きくて、それに抵抗しきれていないって感じがしていたんですね。
よく言いますよね。
「でも」とか「やっぱり無理だ」とか、否定的な言葉で自分の願望とかを打ち消してはいけないって。
可能性は無限なんだから、限定してはいけないって。

確かにそうだと思います。
でも、その願望が「エゴ」から沸いてきたものであったとしたら?
・・・・・打ち消してくれたほうが、後々考えてみたら良いような気がします。
「ああ、あのときやめといてくれてよかった。後悔するところだった」って。
確かに、エゴから発した願望が実現した場合、自分が痛い目を見ますよね。
逆もまた然りで、良いことも自分に返ってくる。
でも、良い悪いの判断ってどこでどうするのか、誰がするのかって思うと、わからないですね。
見る視点によって違うから。

確かに「愛」から発した願望であればいいのだろうと思う。
それは自分が「愛」から発するものだ。
世の中の役に立つことであれば・・・・・、しかしこれも視点や時空が関係してくる。
その当時はいいことであっても今は悪いこともあり得る。

願望が沸いてくる先は一体どこなのだろうか。
内なる神につながっているとか、潜在意識に繋がっているとか、その状態であればいいのか。
無意識を意識に上らせて意識的に選択すればいいのか。
それが「私」の「本当の」願望なのか。


思考は現実化する。
それは自分の人生に、日常に、社会に、世界に、星に、銀河に、宇宙に・・・なんて考えたら、自分は宇宙全体になってしまう。
実際に自分の肉体を見ると、考えると、まさに小宇宙だと感じるし。
しかし、太陽系しかない。
対応する臓器などを考えると、どうしても太陽系に見える。
では銀河は?宇宙は?
たぶん、自分の肉体の周囲だろうと思う。
上下なんかは関係なく。
太陽系までが物質的世界で、その先はたぶん非物質なのだろうと思う。
※あくまでも自分の肉体で考えるとですが。

では、自分の大きさってどのくらいなの?となると、たぶん、肉体を包み込むようにして「私」が存在しているんだと思う。
というか、肉体を含めての全てが自分なのかもしれない。
そんな説は「悟りや覚醒したした人の覚醒体験」を読むとよくわかる。
私はクリシュナムルティの覚醒体験が顕著でわかりやすいと思いましたが。
そこでは、「全てが自分」なのだ。
これは、新しいことではなくて、あるレベルまで行ったら皆が言っていることですね。

でも、天邪鬼な私は、「人の覚醒体験は人の覚醒体験だから私のものではない」として、どうしても違和感があった。
パッケージ化された覚醒や悟り体験は・・・・どうもなじめなかったからかもしれない。


ネバーエンディングストーリーというファンタジーがありましたが、「モモ」の作者であるエンデさんが書いたものですが、
あの本では(映画では)本を読んでいる少年がいつのまにか本の世界とリンクしていたって内容ですが、ざっくり言うと。
忙しい人のために、下記を用意しました。

「12秒でネバーエンディングストーリーを説明する動画



あまりにもざっくりすぎて笑えるくらいです。
ファルコン大好き!!!!って関係ないですが・・・。
ファルコンに乗って大空を駆け巡りたい・・・・って・・・(うるさい)

このファンタジーの感覚ってとてっもわかりやすいなと思います。
リンクしている。
実際にリンクしているんだと思います。
逆リンクもありかもしれないし。
でもどっちも「自分の世界」なわけで、本を読んで想像(創造)しているの側が発信側、既に書かれているストーリーが過去に自分が思考した世界なので。
ナルニア国物語も似たような感じがあります。(こちらは実際に次元でリンクしている感じですが)

どっちにしても、自分の世界。
自分が見て、認識している世界。
意識の投影。
思考が現実になった世界。

これを私たちが生きている世界に置き換えてみると、どうか。
私が認識している世界と、隣に住んでいる人の世界は別物ということになる。
私が見ている世界・・・・それは、私が五感や六感で感じる世界ですが、そうなると実体を伴わない世界もってことになる。
例えば、テレビで放映されてる世界。
外国で起こっていること、私が住んでいる以外の地域で起こっていること、様々ありますが。

また、感じ方の違い、捉え方の違いにも違った世界がある。
私は「あの人は優しい」と感じ、別の人が「あの人は優柔不断だ」と感じた場合。
感じ方が違う。
これは住んでいる世界が違うことにならないだろうか。
ある人は「愛のあふれる幸福な世界」に住み、ある人は「優柔不断で軟弱な人に囲まれた世界」に住む。
前者は「私はとても幸せな世界に住んでいる」と感じ、後者は「周りの人は皆軟弱だ。なんて私は不幸なんだろう」と感じた。
雲泥の差だ。
幸せと不幸。
同じ世界・・・・に見えていても、違う世界。

これって感じ方の違いだけだ。
ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか。
ポジティブ思考がいいとかそんなことではなく、自分が正直に感じる世界のことを言っているのだ。
全て「幸せ」に感じていたら、その人の世界はばら色だろう。
全て「不幸」に感じるならば、その人の世界は地獄だろう。

何でそう感じるのか。
これは催眠に似ていないか?・・・・と思う。
例えば苦いと感じる人に「これは甘いですよ」という催眠をかけたら、実際に「甘い」と感じる。
その感覚の問題だけだ。
感覚が麻痺して、どれも「幸せ」だと感じる人であれば、どんなことでも「幸せ」だと感じるのか?
それが・・・どうなのだろうか。
催眠でそこまでできるだろうか。
「幸せ」な状態というものを作り出せるだろうか。
暗示で「あなたは幸せを感じる人間ですよ」となることができるのかってことだ。

物事の感じ方を暗示できても、「幸せか不幸か」という暗示は難しいかもしれないと私は思う。

極端な例で言うと、
ヒロポンという覚せい剤が昭和16年代に市販薬として販売されていた。
覚せい剤だ。
小説なども登場してくるから、読んでみるとわかるかもしれない。
世間の常識からしても、その当時は「薬」として販売されていたのだから、「良い」という判断だろう。
そして疲労回復に役立てば、「幸せ」ということになるのだろう。
しかし、現在では全く反対の見解だ。

暗示ということからいえば、「宣伝」が暗示だろうと思う。


少し話しが混乱してきたので、元に戻します。

自分の外の暗示は自分のものではない。
自分が自分にかける暗示は自分のもの。

こんなことが見えてくる。
また、

自分の中の「愛」からわきあがる願望は自分のもの。
自分の中の「無意識なエゴ」からわきあがる願望は自分のものではない。

こんなことも見えてくる。


なんか・・・・・「奇跡のコース」みたいな話になってきましたね。
エゴは幻想である。
エゴが作り出した肉体も世界も幻想である。
神はこの世界を創造してはいない・・・・というもの。(ざっくり過ぎですが)
この幻想は「神の子」の幻想という夢なのだから罪はない・・・・という・・・・。


うーーーーん。



ま、とにかく、私が今感じているのは、

自分が変わらなければ、この世界は変わらないってことでした。
(私が感じる世界は変わらないってこと)

結局、皆が言っている世界観と同じでした。
ことわざとか。

でも、それを実感しているかどうかですよね。
実際にそれを感じているか、それを意識して日常を送っているか、人生を歩んでいるか。

「アミ 小さな宇宙人」で、アミが言っていたことがやっぱり浮かんでくるんですよね。
悪とか、邪悪な宇宙人とかって「自分の頭の中にしかいない」ってことが。
クリシュナムルティーも「世界が混乱しているのは、神が混乱しているからだ」ってこととか。
超ひも理論で言う「並行宇宙」、無限にある次元には自分が多数存在していることとか。
シュレディンガーの猫実験では、「観察する人の意識」が実験結果に反映するとか。

人の顕在意識の力は数パーセントでものすごく小さくて弱いんだなって思っていたけれど、
今は反対のように思っています。
無意識の方が顕在意識よりも強いんだって思っていたけれど、
いまは顕在意識の決断力というか、指令する、判断する力がなければ、「無意識」は動くことができないのではないかとも思っています。
しかし、無意識を意識的に感じての場合です。

無意識を意識せずにただ動いているだけでは、無意識に支配されたロボットのような存在かもしれないと。

この違いが大きいと思う。
無意識を意識に浮上させるのは・・・・これがたぶん、今一部の人たちに起こっていることなんだろうと思う。
覚醒した子供たちはそのブロックがはずれている。

無意識を意識に上らせまいとするする勢力、思考のコントロールですが、これが「月からのコントロール」、
人工衛星「月」からのコントロール、洗脳っていう人もいますが、巨大な「波」なんだろうと思う。
これを跳ね返すだけの力があるのか。
それとも、そのコントロールを承知の上でこの地球に今生まれてきているのかはわからない。
「月からのコントロール」が外れた場合、私たちは超人類に進化しだすのだろうか。

私は、進化したい。

「汝自身を知れ」だ。


私たちは元々進化していた存在なのか、
それとも、これから進化していく存在なのか。

それとも、多種類の人種がいるのか。

その人が受け入れた世界、認識した世界、想像できうる世界、認識した自分が「私」なのかもしれない。
それは、どのレベルの「私」なのか。

ただ、待っていたのではそのまま「無意識」に流れていくだろう。
「意識的」に、「意識的」に。
意識的に生きる。

そう、太陽系が自分の肉体にリンクしているとしたら、「月からのコントロール」も自分の肉体にリンクしていることになる。
どれも自分の内側で起こっていることだ。
並行宇宙、多次元の世界で言えば、
「月のコントロール」の支配がある世界と、
「月のコントロール」がない世界。
もしかしたら、月は火星に移動している世界に居るかもしれない。
どれも存在しているということだ。
想像しうる世界は全部存在しているとしたらだ。
どれを選ぶか・・・、それは私で、私の内部を変えない限り「月のコントロール」のある世界に居るということになる。
どうやって移動するか。
それは意識的な選択で。

私の世界の主人は私なのであるならば。
全ては可能なはずだから。


ファルコンの背中に乗ってお空を飛んでいる世界もある。(笑)
posted by zone88 at 19:43| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 潜在意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月17日

自分が認識している世界が自分の世界

いろんな情報があって、なんか錯綜します。
でも、最近感じるのは、やはり自分が認識している世界でしか自分は生きていないんだなってことです。
人から聞いた世界でも私が実感できなければ、それは私の世界ではないというのか。
だから、選択することってとても重要なんだと思いました。
受け入れること、選択すること。
意志とか。

どんなに「すごいな」って情報があっても、実際にそこに関る人などに接して「ああやはり違うな」って思うことがある。
だから、やはり人なんだなと。
人とか波長とか雰囲気とか。
接し方とか。
たぶん私は「上から目線」の人は苦手なんだろうなって思う。
先生って呼ばれる人に多いかもしれないし、肩書きをたくさんもった人に多いかもしれないけれど、人間としては皆同じなのではないかと思う私は、上から目線で物を言われたいすると、どうしても抵抗してしまう。
「あなたは何も知らないからね」なんて態度はどうかなって思ってしまうし。


まあ、しかし、自分が認識したものが自分の世界なんだなって「上から目線」の人に接して初めてわかったような気がしました。
「自分は全て知っている」ってことって、もう限界なんじゃないのかな?って感じてしまった。
「私があなたに教えてあげる」って感じも。

その人が本来持っているものを引き出すために、側に居る。
親の背中を見て子供は育つではないけれども。

その人の無限の可能性を引き出してあげる。
それは、その人の世界を広げることになるから。
そうしたら、自分から動く。
自立ですか。

自分が認識している世界は、目に見える世界だけではない。
心の部分、意識の部分、精神の部分、感情の部分など様々だ。
特に、意識の部分。
これをもっと拡大させたいと思う。
もちろん、知識はそれを大いに助ける。

人と人との関りがやはりとても重要なのだと感じたここ何日でした。
posted by zone88 at 00:44| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

宇宙って広い。

宇宙の果てまで行ってみよう!
そんなことができたらいいなあと思います。



この動画を見ていると、宇宙に行きたくなります。
でも、ビックバン宇宙で説明されているので、その感覚で見るしかないです。
posted by zone88 at 22:56| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月05日

幸せって何だろう?

今日、二十数年ぶりに友人と電話で話をしました。
以前、職場が一緒だった人で、年賀状のやりとりばかりの人でしたが、何となく気になって電話してみました。
驚いたんですが、人の声って変わらないものですね。
若い時のままの声だったので、驚きました。

電話の中で・・・、皆幸せになりたいからいろいろやって生きているんだなあって改めて感じたんです。
私はどっちでもない。
今は幸せだと思えば幸せだし、不幸せだと思えばそうなる。
例えば、偏頭痛だとします。でも、だからといって不幸かって言われれば、関係ないとしかいえない。
偏頭痛と幸せ、不幸せって関係ないと私は感じるんですね。

人生を振り返れば、誰でも問題を抱えて生きているし、それを不幸と思えば不幸だし、そんなことも含めて今生きていることが幸せだと思えば幸せになる。
条件はないなと思うわけです。

どうしても今の状態から抜け出したいとか、そういう状況にあっても、それが不幸せかって言われれば、誰かと比べてってことになるし。
もっとその状態より不幸な人を見れば、「私はあの人よりは幸せかもしれない」なんてことになりそうだし。

だから「私はどっちでもいいと思う」って友人に話したんです。
「幸せになるために生きているわけじゃないし、あんまりそんなこと考えないよ」って。
実際そうなんですね。
本当に「私は幸せになりたい」って生きているわけじゃない。
ただ、生きていることに感謝しているだけ・・・・かなと思う。

ひどい状況ってあるけど、それも時間が過ぎれば終わる。
ひどい状況っていろいろありますが、例えば、病気とか、借金とか、人の死とか、経営難とか、非難されるとか・・。
考えればいろいろありますが。
でも、それが一生、ずーっと続くわけじゃない。
いつかは終わる。
過ぎてみれば、「あのような経験をした」ということしか残らない。
それが後になって役に立つこともあるわけだし。
だから、
まあ、
時が解決するって感じですか。

誰でも、嫌なことは経験したくないし、嫌な思いも受けたくない。
でも、そうなったら、どうするか?
過ぎるのを待つしかないですよね。

怖い思いとか、例えば金縛りとかも、時間が経てば終わる。
悪夢も、時間が経てば終わる。
どんなことも終わる。
ま、繰り返すこともありますが。
それをどうするかですが、いろいろやってみるしかないでしょうね。

私は「これだけしかない」ってものはないと思っているので、その人に合ったやり方とか、時期とか、そんなものがあって、
その人が選んでいいと思ってみてやったことは、全てその人にとっては何らかの意味を持つんじゃないかと思っています。
だから、やってみて、ダメだったらやめる。
みんな、こんな感じで同じことしてるんじゃないかなと思います。

幸せ、不幸せですが、
私は、やはり、今はあまり考えていません。
いつも生きていることに感謝しているだけです。
生きて、美味しいご飯を食べることができて、まあまあ健康で、住むところもあって、仕事して、人間関係っていろいろあって当然だから、
喜怒哀楽があって。
でも、皆がいるから仕事もあるわけだし、人間関係も成り立つわけだし、喜怒哀楽も経験できるし、住むところだって大工さんがいなきゃ私一人で家を立てられるわけじゃないし、水道だって業者さんがいなきゃ引けないし、電気もガスも下水道も、どれもこれも一人じゃできないから、
周りに感謝する。
食べ物を作ってくれる人がいるから、こんなに豊富にいろんなものを食べることができる。
生きているって皆が居て成り立つことだなあって感じるから。
生きていられることに感謝する。

あえて言えば、感謝できることが幸せだなって思う・・・・くらいですか。

生かされているなって思えるのも、過去にいろいろなことがあったからだし、今までの経験がそんなことを気付かせてくれるんだなと思うんです。
感謝できるっていいなと思います。
有難い、ありがとうっていいなって思います。


posted by zone88 at 20:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。