2013年02月27日

ハートセンター

チャクラで、ハートセンターというのがあります。
私はあまりチャクラを意識してもこなかったし、調べたこともありませんでした。
これも、何か理由がありそうですが、今はわかりません。

今、私がやっていることは、
太陽瞑想とか、自分をイメージでクリスタル化すること。
瞑想のように、深呼吸すること。
自然の中になるべく居ること。
そして、ハートセンターにフォーカスして、そこから無条件の愛を発信しているイメージをすることです。
イメージって、本当はとても大切なんだと思います。
特に、愛とか、気持ちとか、信じるとか、すべて目には見えないものなので、
イメージして、深く感じることが大切なんだと最近感じています。

ハートセンターを中心にすると、不思議にの安らぎが訪れて、穏やかな歓喜が訪れてきます。
いろいろワークとかやってきたり、セミナーに参加したり、本を読んだり、情報を見たり聞いたりしたけれど、
ハートセンターを中心にすると、今までやってきたものがすべて実を結ぶような感じになってきました。

全てが溶けてつながっていく感じです。
闇だったところに光があたって影の部分に光があたっていく感じです。
ハート(心臓のあたり)から無条件の愛と、光がパーッと出ているイメージをするんです。
そうすると、本当に出ている感じになります。

それは、誰でもやっていることかもしれないけれど、
他人に対しては、心を開く行為になったり、信頼することになったり、ハートから心から話をしたりするようになりました。
だから、嬉しんいんですね。
いやなことは少ない。

ハートが開くってこういうことなのかなと思いました。
ハートが開いて、それからやっと次の段階が始まるのかなと思います。

いくら情報を頭に叩き込んでも、疑いが出てきたり、さらに違う情報を漁ってみたり、
何が本当なのかを探してみたり・・・。
でも、それはハートが開いた後であれば、だんだんとわかってくるものなのだと思いました。

ワークしてエゴをなくそうとしてみたり、
潜在意識をクリーニングしてみたりと、
いろいろありますが、
ハートが開いていないと、ある一定以上は進まない。
それは、実感しています。

いつか、必ず、ハートを開かなければいけない状態になってくるようです。

誰でもできて、最も難しいこと。
「愛」そのものになること。

言葉では簡単ですが、私はこのことに長い間苦労して、いろいろやってきた気がします。
気付かなかったんですね。
あまりに身近で。
それも「愛」という言葉に抵抗もあったりして。

でも、「愛」という言葉よりも、「無条件の愛」の方が私にはあっているようです。
無条件の愛と無条件の許容。
受容。
そして、意志。
そして、知識、叡智。

どれが欠けても、だめなんだなと今感じています。
不断の努力と意志が必要だと思いました。

ハートが、魂とハイアーセルフに至る「門」だったんです。
ハートが開いていないと、ハートが活性化していないと、
魂にも、ハイアーセルフにも到達しないようです。
それは、実感です。

ハート=愛
球体的です。
これまでのチャクラの概念とは違うもののようです。

魂は光の元。色で言えば「白」。
そしてチャクラは光線。
七色です。
そして中心はハート。
ハートが開かないと、チャクラ(エネルギーセンター)も活性化せず、
魂とハイアーセルフには真につながらないようです。

世界人類の共通語=愛

ううーーん。
深いです。

そして、日本人になじみ深いのは、魂。
日の丸です。
神、霊、魂。

うううーん。
これも深いです。
posted by zone88 at 23:54| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エメラルドグリーンの光

イメージで、初めてエメラルドグリーンの光を観ました。

これは、前に紹介したOnenessのメルマガを読んでからです。
メルマガには、高次元のマスター方が一体となった、スピリチュアルハイラーキーからの文章が多く、私はそれらを読んでいました。

そうしたら、なんと、エメラルドグリーンの光が観えてきたのでした。
チョット感激しました。

このメルマガの内容は、濃いです。
私は、熊が水を飲むように読んでいます。
しかし、内容が多いので、まだ2008年分です。(≧∇≦)

ワークの内容も、一部公開されているので、実践的です。
でも、一部とはいっても、物凄い内容だと私は思いました。
驚きです。

全てが網羅されています。
いろいろ疑問に思われている方にはかなりお勧めです。

バックナンバーは、こちらです。

http://melma.com/sp/backnumber_115861/



※今、鳥肌がたちました。

エメラルドグリーン関連の文章がメルマガに出てきました。

以前、夢で何かの集まりに出たのですが、そこには、私の名前が書いてありました。
私の本名ではなく、エネルギーでの名前みたいな感じの名前です。
例えば私が山田花子という本名だとしたら、エネルギーの名前は、苗字なしの「さゆり」、みたいなイメージです。
そこで、紹介されるみたいな感じでした。
壇上には何故か金時計を持った男性がいました。
壇上の奥には、自然が拡がっていて、アメリカの歴代の大統領の顔がある場所のように、女性の顔がありました。
その隣りは大魔神のような男性の顔が。

それに関係があるようです。


思ったら、インスピレーションを感じたら、直ぐに行動する。
シンクロニシティが増えるようです。
そして、その意味が現れてきます。

驚きです。
posted by zone88 at 00:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | スピリチュアル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

わからないと感じるもの

絵を観ていると、素直に感動できるものと、どうもわからないと感じるものがある。
これは、絵に限ったことではないですが、特に現代アートなどになると「わかない」という感覚は一般の人は感じるだろうと思う。
このわからない、または不可解な感じというのは一体何であろうか。

きれいな写実のお花の絵を観ると、誰が観ても「きれいだな」ぐらいは感じる。
感動のしかたは人それぞれ違いますが、左脳的に見ているか、右脳的に観ているかで感じ方も違う。
左脳的とは分析的ということだ。直線時間、平面思考のような、連続の感覚で、分析して理解しようとする。
右脳的とは、一瞬で全体をとらえる。だから理解しようとしないし、時間でいえば無時間の感覚だ。
無時間の感覚とはわかりにくいけれど、分断されていないひとかたまりの時間とでも表現したい。
また、平面ではなく、折り目があったり、重なっていたり、歪んでいたり、揺らぎがある感覚だ。

感動するとは、自分が感動するわけだから、自分の中に感動する何かがなければ感動はしない。
だから、理解できないものは「不可解」に感じたり、未知には恐怖を覚えたり、反対に興味を覚えたりもする。

理解できないものを理解したいと言うことが、自分の幅を拡げることかもしれませんが。

では、感動の幅を拡げるとはどういうことになるだろうか。
それは、そのものを思考を抜きにして、分析しないで、全体をありのままに観ることからはじめるのがよさそうだ。

しかし、私たちは野辺の花でさえしっかりと観ているだろうか。
この花は●●という名前の花で、花びらは何枚、●色で、春に咲く・・・、とか分断、分析しているだけかもしれない。
名前をつけた時点でそれはもう終っているような気がする。
名前を知らなくても、花は花でそこに存在している。

だからその花を1分でもじっくりとありのまま、全体を感じてみるのが「観る」「知る」ことなのではないだろうか。
いったん言葉にしてしまった途端にわかったような気になり、表面しか見ていない。
だから、当然感動もなく、当たり前の光景の一部と化してしまう。
言葉を知らない子供の方が多くの感動をもっているように思う。


では、左脳は不要か??
そんなことはない。
感動体験を記録したり、表現することができるのが左脳だ。
絵を観て、自然を観て、感動したその体験を言葉によって表現する。
語彙は多い方が表現の幅が拡がる。
詩人が感動を言葉にして、感情の動き(感動)を言葉によって、静として残すことができる。
それは「統合」かもしれないと思う。

日本的な表現には、「統合」を感じる。
西洋的なものには、「分析的」な分断を感じることがある。

何故それを感じたのかと言えば、小林秀雄(故人・評論家)さんの文章に触れたからだ。
ああ、日本人的だなと感じました。
いかに現代は分析的な文章が多いことか・・・と感じました。
特に翻訳された文書などにそれを感じます。
西洋的なんでしょうね。

観るという行為は、深いなと思いました。



posted by zone88 at 17:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

目的地、ガイドブック、マップ・・・でも、動いていない。

本やネットで色々な情報を見ているけれど、
ただ見ているだけのことが多いかもしません。
それは、目的地がはっきりしないから・・・という理由があるかもしれません。

旅行に行きたいのだけれど、目的地が定まらず、いろんな旅行先のガイドマップばかり見て、
一向に動こうとしない。

日常の現実では、いろいろなことを体験するけれども、それが何に関連していることなのかが見えない。
先が見えないから、不安になって、何かあるといけないからといろいろ溜め込んで、また動けなくなる。

一番の理由は「目的地」がはっきりしていないからかもしれない。
どこに行こうとしているのか。

目的地を「自分が理想とする世界」としてみる。
それは、どんな世界?
大体は似通っている。
平和で豊かで、歓喜の世界・・・みたいな。
では、具体的には?

それは、動いてみないと観えてこない。
だって、旅行のパンフレット収集ばかりしていて、旅行会社に問い合わせることもしていないから、
イメージが浮かんでこないのだから。
だって、一度も行ったことがない場所だし。

これが、「頭で考えていて、動けていない状態」エネルギーの停滞状態に似ているように思う。

仕事でも同じかもしれないし、日常でも同じかもしれない。

まず、自分が理想としている世界が少しでも浮かんでイメージできていたら、
まずはそれを忘れずに、動いてみる。
そうすると、エネルギーが動きだす。
そうすると、そのエネルギーに乗ることができるから、目的地に一歩近づいたことになる。

シンクロが多くなってくるのは、その「メッセージ」だ。

動けないもうひとつに理由に、「恐怖」があげられる。
でも、旅行に行くのに、旅に出るのに、「あれが起ったらどうしよう」なんて不安なことばかり考えていたら、
一向に旅行には行けない。

大それた、世界一周旅行でなくても、初めは近場の温泉でのいいのだ。
まず、旅行に慣れる。
そして、行き先を増やす。

旅行に行く前に、「不安」を感じないためにはどうしたら良いか。
旅行の経験とか、体験、いわゆる「智慧」が身についていれば、何かがあったって、動じない。
対処できる。
それが「知識」だ。

情報は知識だ。
だから、その知識や人の経験談とか、そのようなものを自分で体験してみたら、「不安」はなくなる。
だから、小さなことから始めてみる。

まあ、どんなことも同じだと思いますが。
こんなこと、誰でも知っていることだし。
勉強するにしても、いきなり専門書を読むことはできないし、第一興味もわかない。
面白くない。
でも入門書だったら、面白い。
だから、入門書から入って、自分で実際に経験してみて、それから知的体力もついてくるから、
専門書も楽しく読めて、興味もわき、体験となり、生きた「智慧」となる。
理想に一歩近づいたことになる。


無謀に、無理矢理に、行動するのでもなく、
でもいつまでも旅行のパンフレットばかりを眺めるのもなく、
まずはある程度知識を得たら、行動してみよう。
動いてみよう。

そうしたら、エネルギーに乗れる。
旅行というレールに乗る感じだ。
そうしたら、もっと新しい景色が見えてくる。
もっと楽しくなる。
途中で、不安になったら、それを経験して克服した人の知識を入手して、不安を解消しよう。
そして、また旅行のエネルギー列車に、エネルギー飛行機に乗る。

そうしたら、目的地にたどり着く。
途中で進路変更になるかもしれないけれど、それもまた楽しい。
行ってから考えればいい。

旅行先は向こうにある。
自分が動かなければ、たどり着かない。

最後に目的地にたどり着いたときには、もしかして、「あれ?ここは私が居た場所だったではないか」なんてこともあるかもしれないあ。
それは、幸福の青い鳥。
幸福を目的地にしていれば・・・だけれど。

いろいろ、目的地はある。

いつまでもガイドブックばかり見ていないで、旅行に出かけよう!
ガイドブック、そのうち古くなるよ!
地図も古くなるよ!

それは、「今ここ」と呼ばれていること。
「今」「一瞬一瞬」、ガイドブックもマップも変化している。
だから、最新のものを手に入れて、旅に出かけよう!

列車に乗ったら、飛行機に乗ったら、あとは、目的地まで連れて行ってくれる。
それが、目的地のエネルギーだ。

もしかして、その列車や飛行機は自分で創ったのかもしれない・・・・って気付くかも。
もしかして、その列車や飛行機は私自身だったかもって気付くかも。
そのエネルギーと一体化していれば、そう感じられる。
でも、列車や飛行機は、「私」が意識しなければ現れない。
だから、そのエネルギーの元になろう。

イメージして、ありありと感じること。
潜在意識開発なんかで言われていることの構造に似ているかもしれないです。

先に自分が笑う。そうしたら鏡の自分は笑い返してくる。
宇宙という鏡はそれを倍増以上にして返してくれる。
共鳴、共振してどんどん拡大する。
(もちろん、マイナスエネルギーも・・・。それが地殻変動とかだったら・・・大変!)
だって、鏡は無数に無限にあるから。
喜びの世界に行きたい、生きたいなら、自分が喜びの元になろう!

創造エネルギーの発信元になろう!
だって、私たちは創造する者だから。
posted by zone88 at 01:21| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 潜在意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月21日

整理整頓と思考、行動

身の周りをきれいにしている人、そうでない人がいます。
私の場合、どちらでもないかもしれない。

あまりきれいにしすぎると、やる気が起きなくなったりしますから、適当に片づけます。
これも、やはり自然に・・・。

例えば掃除、洗濯。
清潔なのがいいのですが、あまりに清潔すぎるのも潔癖のようになってしまって、なんか堅苦しい。
おまけに他人にそれを強要したりすると、これはまたハタ迷惑だ。
だから、やはり「気持ちがいい」程度がいいみたいです。

掃除は・・・、きれいにすると気持ちがいいし、身体も使うから気分がスッキリするし、
水拭きなんかをすると、水に触れるから気持ちがいいし、床なんかもピカピカになって、
何となく「床が喜んでいるような」気になります。
擬人化ではなくて、何となくです。
別に床とお話をするわけではない。

床が私を通して自分を磨いているような、私が床を磨いているような、変な感覚です。
だんだん、床と自分の堺がなくなって・・・・と、変な感じになりますね。

行為としては、やはり、自然に・・でしょうね。
「きれいにしなきゃ」とか、「きれいにするのが良いこと」とか・・・・、なしです。
まあ、そんなこと考えて掃除している人はいないかもしれませんね。(笑)

仕事をしていても、ファイリング・システムというのがあって、系統にそって整理整頓すると、
整然としてきます。
スペースも半分に減るし、見た目もスッキリしてきます。
そうすると、なんとなくホコリがあったりすると、気になってきて、掃除します。

そうすると、思考もスッキリしてきて、仕事ははかどり、時間に余裕が生まれます。
そうすると、インスピレーションがわいてきて、別の仕事をしたりします。
たぶん、頭や体のスッキリ感が影響しているんだと思います。

何でも、感じたことが大事で(体も頭も気分も)、そうするとイメージがスッキリした感じになるので、
イメージが現実となっていきます。
ゴタゴタしていたことも、スッキリとしてきます。
例えば企画がスッキリとまとまるとか、その企画がスッキリとスムーズに通るとか。
営業なんかでは、お客様がスッキリ感を感じるかもしれません。
それは、何となくです。
それは、たぶん、自分の発している波動が伝わるからだと思うんです。

同じ波動をお客様は受け取って感じるから、
「喜びは喜び」になって、嬉しさ倍増!!となります。

どんな些細なことでも、波動は拡がっていきますね。
まさに、自分が小さな喜びの石を水の中にポチャーーーンと落とした感じで。(笑)
波紋が広がる・・・とも言いますね。

お掃除ひとつにしても、道を歩いているにしても、ご飯を食べるにしても、
仕事をするにしても、自分が「嬉しさ」の原点であったら、その波紋は世界に拡がっていくんだ・・・と感じています。
誰が見ていなくても、誰も気が付かなくても、無意識は気付いている。

自分が発した波動は必ず関係している人や物や世界に拡がっていって、
「あれ?何となく、これっていい感じ!!」なーんて言葉で伝わる。
「なんか、嬉しくなってきたね」とか。

整理整頓すると、スッキリして気持ちいい・・・と感じるのって、意外と大きなことだって思いました。

ここでも、やはり、頭で考えるよりも、先に体が動きます。
だから、「これをしようかな」と思ったら、すぐ行動してみる。
何でもいいから、まずは動いてみる。
そうすると、糸がつながっているかのように、面白い展開になってきます。

何となくそう思ったら、すぐ行動してみる。
最近は、これがマイブームです。
とっても気分がいいです。
スッキリ!です。

でも、職場でデスクの上や周りが乱雑になっている人をみても、
やはりそれはバランスがとれているな、いいなって思います。
個性に見えてきます。
本当にその人らしくて、良く見えるんです。
だから、皆でバランスを創り上げているのかな・・って。
何だか自由で嬉しいです。

アンバランスのバランス。
自然な感じ。
いいですよ、何か。

掃除したり、整理整頓したりしていると、
ふと、自分の内面にあるゴミみたいな、垢みたいなものが無くなっていったのかなって感じます。
外に現れてくるのは、あくまでも結果なのかもしれません。
だから、気分がいいのかもしれないですね。

何も努力しなくても、自然にそうしたくなるっていうのが「自然」ってことなんでしょうね。
ナチュラルです。
「あなたの為に」とか、「みんなの為に」ってのもいいことだとは思いますが、
そんなこともなくなって、それが自然な行為として、ありのままの自分として、
自然な自分の姿で楽ちん!!って感覚がいいですね。

そうなると、ただそこに存在しているだけで、「喜び」を振りまいていることになりますね。
いい感じ。
人って自然になると、それが当たり前になるんでしょうね。

「愛の存在になるんだ」とか、「光の存在なんだ」とか、そんなこと思わなくても、
自然にそうなっているんだろうと面います。

たった少しの「意志」が、
たった少しの行動しようという「意志」さえあれば、「勇気」を持てば、
誰でも、波に乗れるんだなと思いました。

posted by zone88 at 00:22| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

ディジャヴ(映画)と並行世界、タイムトラベル。

このディジャヴという映画は、何度も見た映画でした。
今は、huluでも観れます。



海兵隊と観光客を乗せたフェリーが海上で炎上・爆発した。
そこの現場を訪れたのが主人公のダグ・カーリン(ATF捜査官)。
デンゼル・ワシントンがダグを演じている。

ディジャヴとは、既視感と言われます。
どこかで見たことがある景色。

その調査を行っているうちに、FBIの捜査に協力することとなる。
何でも4日と6時間前映像を見ることができる大掛かりな装置がある場所に連れて行かれる。
しかし、映像を見ることはできても、どこを見るかで事故の原因や犯人を割り出す結果は違ってくる。
それで、ダグの勘に目をつけたのが、ある捜査官だ。
技術が進歩しても、やはり人の勘がキーなのだ。

ダグは、途中でその映像がおかしいと感じる。
映像を見ていると、映像の中の人物がこちらに反応しているように感じたのだ。
そして、試しにレーザー・ポインターでレーザー光を画面にあててみた。
そうしたら、何と、映像に映っている人物が反応したのだ。

実は、偶然にも4日と6時間前映像を実際にその時間にリアルタイムに観れる装置だったのだ。
時間のねじれ。

そして、ダグはあることを思いつき、行動にうつす・・・。


この映画で印象的なのは、現実的だなと思ったことだ。
タイムトラベル技術で過去に戻るとしたら、こんな感じになるかもしれないなと思ったからだ。

ダグは命がけで行動するわけですが、その命がけの行為が最後にはハッピーエンドとなるきっかけになる。
死んでも死なない。

この死んでも死なない構造がとても興味深いんです。
逆に言えば、命がけの真剣な行為があってのみ、真に生きることができるというような。

一瞬一瞬はこんなことの繰り返しかもしれないとも思える。
過去は変えられないように思えるのも、時間が直線的に感じられるからだ。
もし、時間は直線的ではなくて、フィルムのコマのように、バラバラになるものであったとしたら、
いかようにも組み合わせもできるし、いかようにも変えられる。

直線的な時間の連続であると錯覚してこそ、前のコマを持続させようとするのだ。
だって、矛盾が生じるから。
混乱するから。
安心なのは、前と似たような現実が続くことなのだから。
その信念が、次も似たような現実を引き起こし、まるで鎖にでも繋がれたように感じる、
あの重苦しい制限を感じる理由かもしれない。

この映画は、そんな時間のトリックを今一度考え直せる映画だった。

実際にリモートビューワーたちは、時間のトンネルに入り、未来と過去に行ったりしているという情報もある。
モントークで起こった船の消失と出現、まるでバミューダ海峡のような事件も起っていたらしい。(本もあります)

アメドラでも最近は、タイムトラベル関連のものが多い。
J.J.エイブラムスが制作したアメドラだ。
エイブラムスはロストやヒーローズを制作し、大ヒットをとばしている人だけれど、
私は、その中でも「フリンジ」が面白いなと思います。
フリンジサイエンス。(非主流科学)



まだシーズン2しか見ていませんが、最後まで見たいドラマです。
ちなみに、エイブラムスは映画「スターウォーズ」を手掛けるようです。
映画では、スタートレックも制作しましたよね。

フリンジでは、スター・トレックでスポック役を演じたレナード・ニモイさんがベル役で出演しています。

で、このフリンジでも、時間のトリックといいますか、並行世界(ふたつの地球)が出てきます。
主人公のオリビアは、その世界を行き来できる特殊な能力をもっている。
でも、それは過去の実験がもとになっている。

アンドラは競争率が激しいし、視聴率が悪いと途中で終了なってことになるので、
視聴者を飽きさせないドラマ作りになっているから、やはりすごいなと思います。

私は、最近、テレビをまったく見なくなりました。
意識的に視ないようにしているのではなく、気が付いたら、視ていなかったという感じです。
きのう、気付きました。
「そういえば・・・・・、テレビを視ていない」って。(笑)
何も不便ではないので、気が付かなかったんです。


時間の観念もどんどん変わっていくのかもしれません。
本当だと思えたとき、それは・・・・変わった後なのかもしれません。

「時間とか、空間は、自由に行き来できるもので、自由に変更できるもので、柔軟だったんだ」と。
posted by zone88 at 23:39| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分のことであって、自分のことではない

「奇跡のコース」をかなり前に読んで、今年のお正月にまた読み直しました。
一度読んだ後に、ワークを進めていて(ネットに掲載されています)
どうも、「世界を神は創らなかった」(幻想の世界のことです)というあたりにひっかかりがあり、進みませんでした。
では、様々な経験は何のためにあるのか?と・・・、このような疑問が浮かんでくるのです。

父と子と聖霊

この聖霊の存在が「愛と幻想」を両方知っていて、そして悪夢(幻想を見ているから悪夢)から目覚めさせてくれる。
幻想を見ている私たちは、それを幻想と認識できないから、その両方を観ることのできる聖霊がそれを癒す。
幻想の世界から、真実の世界へ・・・。

たぶん、幻想は「無明」といわれるものかもしれません。
闇も、「無明」。

光があたっていないところ。
愛になっていないところ。

相手を観るとき、「相手の聖霊を愛を観る」という行為をします。
たとえネガティブにみえても、どんなに闇に見えても、相手の聖霊と愛にフォーカスする。
それは、
自己の愛(ハイアーセルフ)が、相手の愛(ハイアーセルフ)を観て、意識して、共鳴するということだと思う。
なぜならば、
真の自分、真の相手とは、愛そのものであるから。
真実の姿と真実の姿の対面、対話、会話、共鳴。

相手とは、自分を映し出す鏡であるから、自分の姿を映し出してくれる。
相手の聖霊にフォーカスし、相手の真実の姿を観るということは、自分の中の幻想が消え去り、
真実の姿に戻るということ。
責任転嫁とは、その真実を覆い隠す。
幻想を強化して、幻想を現実だと思い込んでしまう。
「分離」。

分離とは、心が「聖霊と幻想」に分離しているということ。
聖霊が幻想を癒し、すべてが聖霊となったとき、「分離」の壁は取り払われ、「統合」し「ひとつ」になります。
聖霊=ハイアーセルフだと思います。
ハイアーセルフ=真実の自分。


よく、潜在意識開発でも同じようなことをしますが、
相手は写し鏡として、相手を観た場合に、あまりにネガティブだった場合、苦しくなることがあります。
すべて自分の姿なんだ・・・・・って、がっかりしたり、速攻で結果が出なかったり、苦しかったり、
責任を感じたりします。
「相手の聖霊にフォーカスしているのに」と、あせるわけです。

でも、これも、苦しくなる必要がないのだとわかる時が来る。
それは、ただ、真実ではない(幻想)であるのであり、それを自分が苦しくなったり、責任を感じたりして、
よけいにフォーカスしてしまって、よけいに「握りしめている」だけなんだと、
ハッと気づくときがあるんです。

いちばん、体感として、処し方として、楽だなと思ったのは、
「物事は中立であって、自分が決めているだけ」と気付いたり、
「幻想は幻想であると気付いた時点で、徐々に消えていく」と腑に落ちたりしたときに、

「あ、そうか。気付いて、ただ現象として現れているだけなんだと思えればいいんだ」と思う・・・ときが来ます。
そうすると、自然に握りしめなくなる。
気にならなくなる・・・という感覚です。
手放す、執着していない。
軽い感じです。
執着って重い感じがするし、手放していないと「荷物」がたくさんあって、やはりこれも重い感じがします。

幻想であって、本当は自分のものではないと気付く。

本当に自分のものではないんです。
影というか、光があたっていない影。
だから、そこに光をあてる。
それが、「相手の聖霊を観る、聖霊にフォーカスして、聖霊と会話する」みたいな行為となってくる。
イメージでそう思うと、そうなる。
それが、「思ったことが現実となる」ことなのかなと思いました。

体感すると、視野が広がって、余裕も出てきて、何度も経験したりしていると理由もわかってくるので、
「腑に落ちる」、それが「確信」になるんですね。
だから、まだおびえていたり、恐怖や不安に感じる場合は、腑に落ちていない、確信していないってことも見えてくる。
だから、また経験する。
それなりの理由があるんですね。

その経験とは一体何の為にあるのだろうか?
私が思うには、その経験を後に活かすためだけにあるのだと感じています。
そうなると、第三者の眼で見始める。
「観照」の状態。
自分で自分を観る。
相手に写った自分をも「観照」する。
それが聖霊が行っていることかもしれないと思うわけです。

それは、自分のことであって、自分のことではない。
自分は自分の世界の創造主であるならば、(文字通り、誰でも自分の世界は自分で創っている)
目に映る世界に責任を持つことになる。

世界と自分は密接につながっていて、「社会的責任を果たす」と、言葉で言う以上に、
もっと大きな何かの一端を担っているのだと感じられてくる。

外にフォーカスするのではなく、自分の内にフォーカスするということも、
もっともなのですが、自分以外の人のために、世界のために、
「幻想を見てきた、創り出してきた、そんな経験を活かすことができる」。
自分=他人、自分=世界、みたいな構図になりますが。

イメージとしては、そんなイメージが浮かびます。

「奇跡のコース」は階梯として表現されている箇所があります。
奇跡自体ですが。

完全に真実の世界、真実の存在になったときには、
奇跡はもはや必要なくなる。
階梯は、その上の階に上がったときには、はずされ、不要となる。

幻想や経験、それは、最後にはやはり消えてしまうものなのだと思いました。

それが、「悪夢からの目覚め」かもしれません。
あれは、夢だったのだと。
夢です。
現実とは真実の世界。

様々な体験。
それは、真に相手を理解するための必死のダイビングであると感じます。
何のためのダイビングか。

それは、ひとりひとり感じ方も存在の仕方も違うように、
ひとりひとり、皆違うのだと思います。

生命は真実そのものなのだろう。
その真実とは?
これも、ひとりひとりが自分で気付いていくしかないのだろう。

やはり、すべては必然なのかもしれない。

そして、「奇跡のコース」や様々なツールは、真実を探し求める人に強く反応し、
真実に近づくために、時間を短縮させてくれるものだと思いました。
最後には時間がなくなる体験をするのかもしれません。
時間と空間もツール(階梯)であり、手段。

少しの意志があれば、あとは聖霊とJ(ジーザスのJ)が手伝ってくれる。
疑いがあっても、わからなくても、「少しの意志」があれば、それで充分だろうと思う。
それだけ、私たちは幻想の世界に浸っているのだから。
それが見えないくらいに。

真実の光が内から輝くとき、そうでないものは自然に調整されバランスされ、真実になっていくのだろう。

ちなみに、幻想とはエゴとよばれています。
エゴがなくなるということです。

エゴは・・・・・死にもの狂いになっています。
しかし、エゴは真実を知らないし、つながってもいない。(幻想の壁があるから)
真実ではないから。
エゴは、エゴの世界が存続するのを願っているわけです。
世界が消えるのだから、それは、死にもの狂いになる。
エゴが肥大化したもの、それがこの世界に見える、ありありと感じられる、あらゆる苦悩や闘争や、そんなものかもしれません。

エゴをなくすには、自分の意識を上げて、真実の姿になっていくこと。
その真実が世界に反映されていくのかもしれません。

大それたことですが、でも、その方向に私はどうしても進んでいくので、
やはりそれは、何か大きな意味があることなのかもしれないと思っています。
posted by zone88 at 01:25| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月18日

芸術と共感覚

小学生の頃にピアノを習っていました。
母親が芸術的なものを習わせてくれたので、その一環でした。

家にはクラッシックのレコードがあり、美術全集なんかもありました。
しかし、小学生の私にはある分野しか目に止まりませんでした。

ピアノ曲には、当時あまり関心がなかった。

二十代に現代思想や、美術に興味が出てきたあたりに、やっとグレン・グールドに出会い、ピアノ曲はこんなに素晴らしいんだと、改めて思いました。
それから、小さい頃から好きだったモーツァルトをまた聴き始め、オペラもいいなと再認識したわけです。

子供の頃にグールドを聴いていたら、ピアノを自然に弾きたくなっただろうに…、と思いました。

何でも興味がわくまでは、自主的に行動はしないから。

天才と言われる芸術家のものに子供の頃から触れることは、とても大切だと思います。

子供の頃に観た絵で、強烈に記憶に残っているのは、ダヴィンチの絵でした。
モナリザだけではなく、他の作品もイメージにしっかりと残っているのです。
小学生低学年の頃に観たのに。
美術全集のサイズや、紙の感触まで覚えています。
不思議です。
それから、エジプト関連の美術。
これは、芸術というよりも、私自身に関連があるから、記憶に残っているんだという感じがします。

グールドの弾くピアノ曲を聴くと、自然な感じがして、とてもいいなと思います。
今でも聴いています。

勿論、バッハやモーツァルト、ベートーベンなどの天才作曲家があってのことですが。

グールドは、いつ聴いても、観賞しても、感動したり、飽きないものには、自然さや、超越したものや、純粋さを感じます。
勿論、卓越した才能、技術があってのことですが。
天才とは、やはり凄いです。
それでいて、人を寄せ付けないような感じはしなくて、やはり、総てである、そんな感じがします。

妥協しない、ではなくて、外部に迎合していない。
一心集中。

そのような天才の芸術に触れることで、自然に波動が上がり浄化、昇華される感じがします。
心の豊かさや、美しさが自然に喚起されてくる。

やはり、人は自然に輝くもの、煌めくもの、光に惹かれるものなのでしょうね。

それは、本来の自分らしさを発見するからかもしれない。
自分の中に輝くものがなければ、感動も生まれないから。
波動の共鳴、共振作用だ。

私はグールドのピアノ曲を聴くと、内なる何かが共鳴するのを感じる。
好きな絵を観ていると、音楽が聞こえてきたり、風や光、匂いまで感じることがあります。
共感覚だと思います。
自然の中にいるような。

五感で観ずる、心でみることを、観ると書くそうです。
だから、体全体で観る、聴く、細胞も、身体を包んでいる何かも、意識も、魂も、総てで観て、聴いている。
鑑賞している。
観賞している。

不思議だなと思います。

私そのものの振動数が上がる感じ、バランスがとれる感じ、そのものと一体化する感じで。

やはり、芸術はいいです。
posted by zone88 at 01:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月10日

何となく思った後に、すぐ行動すると・・・

最近、深層心理学や脳科学の分野をもっと知りたいなと思っているこの頃です。(笑)
理由は、「頭痛」、「気分」、「行動」など、自分の身に起こっていることから自分を理解するといいますか、
自分を実験台にして、いろいろと調べてみるってことをしたくなったからです。

何ですか、それ?・・・・なんて感じですね。(笑)

例えば、偏頭痛にはある薬が劇的に効いたりするのですが、
それは脳内ホルモンが足りていなかったりが原因だったりするわけです。
「何で、ホルモンバランスが崩れてしまったのだろう?」と、こう思うわけです。

そうしますと、それは脳の機能のことなので、
「偏頭痛を起こしてまで私の身体は私に何を訴えているのだろう?」
・・・と、私の場合はこのような発想になります。

気分がイマイチなのも、脳機能が関係しているらしい。
結果的に行動に反映されてきますから、自分の人生にかなり影響してくるわけです。


今朝、何気なく、
深層心理と脳科学をもっと知るにはどうしたらいいのかな?と思って、
ネットで心理学関連を学べることろなんかを探していました。
放送大学とか、いろいろありました。

そして、「そういえば、借りていた本を図書館に返しにいかなければ」と思いました。
でも、今日でなくても・・・明日、会社の帰りにも返せばいいじゃん・・・というのがいつものパターンなのですが、
今日からは、なぜか、

「何となく思って、すぐに行動に移せることは、すぐに行動してみよう」

こう、思ったわけです。
それは、小さなことから始まりました。

心理学、脳科学のことを調べて、すぐに資料を取り寄せました。
友人にお願い事があったので、そのことが浮かんだ時点で、すぐに電話しました。

そして、一番不思議だなと思ったのは、
「自分のことは自分ですべて解決する(責任をもつ)」と思い、
ある人(友人ではない)を支援することにしました。
「私も社会の一員として自分の責任を果たそうと思いました…。云々」みたいな、バカみたいなメッセージを書いて、
その相手に送りました。
まったく、バカみたいだな・・・・・と思ったのですが、一応、一般常識範囲内ですので、
すぐにメッセージを送ったわけです。
理由は・・・・、そうしたほうがいいと思ったからです。

そして、着替えて、図書館にでかけました。


図書館では、心理学関連のコーナーに足を運びましたが、
なぜかその隣にあった脳関連の本が並んでいるコーナーを見ました。
感覚的には、
「私が、今、読むべき本がきっとある・・・かも」・・・こんなあいまいな感覚で、いろいろ見ていました。

『超感覚脳』という七田真さんの著作が目にとまり、読みました。
不思議なんですが、以前、右脳関連の本を読んだことがあったのですが、当時はピンとこなかったので、
それ以降は七田さんの本は読んでいなかったのです。

少し前に、
「最近は本を読む場合、知識を吸収するというよりも、確認するという感覚で読んでいます」
なんて書いたのですが、まったく、今までの私の行動をなぞったみたいな本でした。

『超感覚脳』に記載されてあったメソッドみたいなものがあったのですが、
無意識に20年くらい前から私が少しずつやっていたことが書かれていたので、超びっくりしたわけです。

・ 太陽瞑想して、その残像の色や形を変えてみる。
・ ダウジング
・ ボディトリートメント
・ 気を循環させてみる
・ 呼吸
・ ライトボディ
・ 明晰夢
・ オーラを見る 等

これらは、メソッドやワークとしてやっていたのではなく、ただ面白いから、興味本位で、遊んでいただけなんです。
※光の残像を変化させるのなんて、とても面白いです。(目を閉じてイメージでやります)
オーラを見るなんていっても、「わー、手から光が出てる〜!」とか言いながら、面白がって見ていただけでした。
(これもイメージっぽい感じです。オーラをみたいなんて思ったこともありませんでした)


結果としてイメージがよく見えるようになるらしいのですが、
超感覚脳が鍛えられると、大量の情報が一気にダウンロードされてくるらしいです。
右脳は波動をイメージ化し、左脳はそれを言語化する。

以前、イメージの中で(目を閉じていただけ)ものすごい数の文字が流れるように見えていたことがあったのですが、
あれは、情報だったのかなと思いました。
文字にしたり絵にしたりして、記憶に定着させないと、夢のように忘れてしまうらしいです。
左脳は五感で情報を受け取り理解しますが、右脳は波動(エネルギー)を受け取っているらしいです。
眼に見えないので、「そんな感覚、信じられない」と思ったりしたら、たぶん、忘れるか打ち消されてしまうでしょう。
繊細な感じですから。

また、同じような感覚で目を閉じていたら、イメージが見えてきたんです。
映画のように。
慣れていないと、消えてしまうんですが・・・。
私の場合は、まだイメージだけなので、これで音声まで聞こえてきたらすごいだろうなって思いますが。
(妄想・幻聴ギリギリみたい(笑)。でも薬を使っていないのでそれはないと思います。)


本を一気に読み終わり、他の本も何冊か借りてきました。
現在大学などで学ばれている心理学と、超心理学(トランスパーソナル)及びニューサイエンスは、
違うなと思いました。
心は扱っていても、意識、魂などの領域には踏み込んいないようですから。(行動を観察する手法か?)

今のところ、脳科学が一番近いのかもしれませんね。(私の感想です)

しかし、神智学関連になってしまうと、アカデミックではなくなってしまうのでしょう。


これら、一連のきっかけは、アレックス・コリア―さんの発言でした。
「5次元では、身体が先に動くんですよ。考える前に体が動く・・・・云々」
アレックスさんが宇宙船に搭乗した際には、ベルトのようなものをしないと体の原子がバラバラになってしまうそうです。
三次元ボディだから。




私は、「へえ、考える前に体が先に動くんだ」と思っていたからかもしれませんが、
なぜか、
今日から、
突然、
いつにもまして、

「何となく思ってみたら、すぐに行動してみよう。」と思ったんです。
なんか、その方がいいみたいです。

あんまりごちゃごちゃ考えないで、思ったら、すぐ動いてみる。
たぶん、左脳優先ではなく、右脳優先になって、左脳が後からバランスを取るって感じに近いかもしれません。
子供の行動に似ています。
ただし、子供は言語化するのに語彙が足りなかったりするので、そこらへんは大人になってからの方が有利かもしれませんね。

「何となく思ったら、まずはすぐに動いてみる」
これって、感覚としては気持ちいいし、楽です。
何にも考えないで、まず、身体を動かす。
そうすると、自然に何かに繋がっている。
そして、後で気付く。

「今ここ」とか、「お任せ」の感覚ですね。

うーーん、体感できてきた感じです。
そうすると、身体が発していたメッセージには大きな意味があったんだって気付く。

ううううーん、すごいです。

軽やか〜だし。
楽ちんだし。

哲学用語に、「モナド」ってありますが。
万物の根源とは?に対するライプニッツという方の「モナド論」です。
たぶん、単純なんでしょうけれど、「モナド論」は難しく表現されています。(笑)

感覚としては、たぶん、私の肉体も椅子も水も本もすべて、物質は同じモノで出来ている。
眼に見えるものだけが物質だとする「唯物論」になってしまうと、限定されてしまいますが、
ニューサイエンスの分野で言う、粒子と波動とか、観察者効果なんかを取り入れると、
私と周囲の境界はだんだん薄くなってきて、最後には一体化してしまう。

同じ波動のものに共鳴しながらそのものと私が一体化している。
その連続のような感覚がしました。
今日の出来事の感覚・体感です。

とても、とても、面白い体験でした。
ですから、ずっとこの感覚でなるべく行動してみようかなと思います。

顕在意識の声、「でも」、「だって」、「大丈夫?」なんて声が出てくる前に、
まずは一歩踏み出す。
それだけでした。
一度経験して記憶になれば、顕在意識は「きゃーーー、怖い」などとは思わないでしょうから。(笑)

体感、体感。
自転車に乗れるようになると、ずっと乗れるから。


最後に、『超感覚脳』は、エゴからそれを活用しようとするとダメみたいです。
うまく働かないのかもしれません。

子供のように、純粋に。
posted by zone88 at 23:05| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 潜在意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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