2013年08月30日

皆が面白いと思うことに興味がわかないのは・・。

あるきっかけで「コーザル体」のことを調べていました。
これは、思考、特に抽象思考や高次の思考のことを指すようですが、「神智学」を深く学んでいないので、
詳しいことはわかりません。

本(「神智学大要」)もまだ1巻をやっと、ちら見程度にわかった感じなので、
これからもっと理解していきたいと思っています。

ということで、何でコーザル体の話になったかといいますと、
思い当るふしがああったからです。
それは、20代に澁澤龍彦さんの本を読みはじめたあたりからそれは始まりました。
主に美術関連が多かったのですが、それらに触れてから、フランス文学に触れ初め、
フランスの現代思想を知り、構造主義やポストモダンを知り、哲学に傾倒しはじめ、
形而上学とよばれるものに興味を持ち始めました。

それからというもの、友人と話していても、あまり面白い感じがしなくなってきたのです。
それまでも美術系の話などは、あまり一般向けではないので、芸能界の話とかはつまらないなって思っていたのですが、
それに拍車がかかり、一般的なストレス解消的なこと、たとえばカラオケとかアウトドアとか、
井戸端会議的なこととかに、まったく興味を示さなくなりました。

それから、欲望に関してですが、妙に欲望に突き動かされる、いわば欲望が衝動となって
行動することが少なくなっていきました。
だから、「時間を売ってお金を稼ぐ」ことに疑問を持ち始め、嫌気がさしてきました。
いわば、どうでもいい・・・と。

行動の要因は、興味、探究、というように変わり、
友人関係も変わっていったように思います。


ここで、コーザル体ですが、「肉体」の上あたり、ちょうどかぶさる形であるボディが「エーテル」いわゆる「気」のボディといわれるものです。
その上が「アストラル体」、その上に「メンタル(精神)体」があり、その上に「コーザル体(ここから魂の分野)」。
下位にその上位の衝動みたいなエッセンスがある感じです。


神智学大要第1巻にある「図表13人間の構造」によると、



アーディ                                               モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アヌパーダカ                                       モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アートマー(涅槃)            (霊)                    モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
ブッディ                  (直観)                   再生する魂(高我)
  ↑         ↑
高位天国  コーザル体       (観念化)
  ↑         ↑
下位天国  メンタル体        (具象思考)         低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
アストラル  アストラル体      (個人的感情、衝動)   低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
物質     物質体・エーテル体  (肉体による行動)    低我=マスク・仮面


上記のような表になります。
興味のある方は、「神智学大要」をお読み下さい。


この表を見ると、私自身がたどってきた感じがよくわかりました。
大体、個人的感情、衝動、具象思考、観念化のあたりを行ったり来たりしていたんだなとわかります。
一般的な場合は、下位のメンタル層の精神が、その下のアストラル界の欲望と複雑にからんで、
それが衝動となって行動に移っていることがわかります。

そこから抜け出すために、「瞑想」を始めたり、スピリチュアルに走ったり(笑)するんですねえ。
一般的だと、哲学とか心理学など学問系にも行きます。
なので、この段階になると、仮面をかぶったメンタル界層とか、たまに直観がきたり、
観念とか抽象思考とかをしたりするんですね。


私の場合は、思考の限界をとても感じていました。
これ以上は考えられない、調べても、探究してもわからない。
直観だけが頼りってことになってきました。
それと、抽象思考になって、ぐるぐると堂々巡りとか、そんなパターンでした。

そんなことで、今は、クリシュナムルティの「時間の終焉」を読んでいます。
一端、その枠から外れるということをしようと。
それから、「頭」(思考、知識、経験など)に意識を向けないで、ハートとか魂の方に意識を向けるようにして、
考えないようにしています。
あるパターンから抜け出るには、また、囲い(自分で創っている)から抜け出るには、
思考を使ってしまってはダメだと感じたからです。

そんなことをしていると、何と、「子供」みたいになっていくんですね。
子供のような純粋なもので動いている感じというか、動機ってものがない感じなんですね。
あるとすれば、良心とか、そんなものです。

ハイアーセルフとか潜在意識と一体化するとか、繋がるとかって、
頭とか知識からではダメなんですね。
やはり、実感するものなんだと思うわけです。

今は、どういう状態かと言うと、
低我の部分が上がって、高我の部分が出来るだけ下がってきている感じ(一時的)なんですね。
お互いの協力が必要な感じで。
たぶん、合体(笑)するのは、コーザル体あたりからなんでしょうか。
もしくは上位メンタル体あたりかも。

これが、スピ系で言う次元の構造ってものかもしれませんね。
三次元というのは、肉体次元ってよく言われますし。
五次元ってどのあたりなんでしょうね?

体感で言うと、上記のピラミッド構造とあわせて、円というか、同心円を描く感じにもなると感じています。
どんどん拡大していく感じですね。
意識の拡大って、こんな感じを言うのだと思います。

というわけで、言葉とか思考とか知識とかは、もはや通じなくなる地点がやってくるのは確かだと思います。
でも、それを体感して、わかりやすく言葉にしていくってことも、誰かの役にたつことかもしれないと思っているので、
今、こうして文字にしている訳です。

クリシュナムルティによれば、思考とか説明とか、そんなことをした時点で、
そのパターンに(囲いの中)に戻ってしまう・・・ということでした。
だから説明は無理かもしれませんね。
実感するのは、本人でしかなく、誰も替わってあげられない。


世界中の人の意識が拡大したら、世界ってものすごく、劇的に変わるんだろうと思います。
私もその世界のひとりであり、ひとりひとりで世界は出来ている。
水の波紋が広がるように、その一滴となるように、生きていきたいと思います。


posted by zone88 at 00:47| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

自分とか私の違和感

最近、「私の場合」とか「私は」とかという言葉を使うことに違和感を覚えてきました。
それは、たぶん思考とか考えている時には思いもよらなかったことです。

これは、昨年から自分の中心を頭(脳、知識、経験など)からハート(心とか魂とか)の方に移行してからの感覚です。
私なるものはいないんじゃないのか?っていう感覚になってきたんです。
特に肉体とか、所有の感覚とか、執着の感覚とかの私です。

確かに肉体はあって、見えていて、こうしてパソコンのキーボードに触れているという感触はあるのですが、
他と別個の私という感じに違和感を覚えます。
だから、他と一体化した私という言葉にも変な感じがします。
すべての一部である私っていうのも何か違うんです。
じゃあ、全てであるの?っていうのもまた違う気がして、私たちっても何か・・・。

でも、
ただ、「私」っていう感じ方が変わってきているのは確かです。
孤独感を覚える「私」はなくなっている。
何かにしがみついている「私」とか、
何かを気にしている「私」とか、

では、どういう「私」感覚なのかというと、
何かと溶け合っている感じなんですね。

たぶん、ハートだけを感じているんだと思うんです。
ハートの感じって、「今」しかなくて、
それと一体化してしまうんです。
だから、「私」という別個のものがなくて、
何にでもなれる感じなんです。
それを観ている何かもいない。

ただぷにぷにしたハートが確かにあって、他はあまり存在感を感じない。
それも、そのハートっていうのが実体があるわけではないんですが、
その方がハート以外よりも現実感がある。

面白い感じです。
思考を通っていない感じで、ダイレクトそのものを直ちに感じる・・・これもまだ回りくどい言い方ですが、
やはり、境界がないっていうのが一番近い感覚かもしれません。

私=あなた・・・・とかってことがよく悟り系で言われますが、
またすべてが私であるとか、
すべてが神であるとか。

そういう感じはまだなくて、
ただ今までの知識の塊の私ってものにはとても違和感を感じ、それではないと確信しているって感じかもしれません。

そして、それって、とても軽くて気持ちがいい。
軽快な感じで、
明るくて、
単純で、
純粋で。

でもどっしりと地に足はついている。
確かに地に足をつけて、しっかり生きているんです。

まあ、ハートにセンタリングすると、
楽〜〜〜ちんです。
そして、嬉しい感じとか、
楽しい感じとか、
ニコニコしているとか、
そんなものが出てくる。
自然に。

本当はこっちなんじゃないのかな?現実って。
そんな感じがしています。

いろいろ知識でがちがちになっているよりも、
それらを地で生きている感じで、
でも、複雑じゃなくて、
とても単純だった。

それぞれが感じることが真実なんじゃないかなと思うので、
私はこの感覚を大切にしていきたいと思います。

こんな思いに皆がなったら、素敵だろうになと思います。
だって、すべてのことが大好きになるんだから。
一緒にいるのが嬉しい。
ただ居るだけで嬉しい。

ハートとハートでつながったらどんなに素敵だろうか。
みんながみんなのことが好き。
子供の頃ってそうだったように思う。
今が楽しくて、
明日のことなんか考えてなくて、
くよくよしていなくて。

ハートにフォーカスすると、なんだかこんがらがっていた糸が、すべてがほどけていくようです。
すごいな。
やっぱり良心に従うってことが気持ちがいいんだなって思います。


posted by zone88 at 23:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月24日

信念、真実、道化師としての笑い

私は、大体において「来る者拒まず、去る者追わず」という感じで人と付き合っているような気がします。
そして、自分の信念は相手に押し付けたくない。
だから、勧誘というものにはひどく嫌な感じを受けるので、勧誘ということはしません。
そして、おすすめ!というようなこともしません。

好きな相手からいくら好きなものを勧められても、一時は好きになったり興味を示したりしても、
後で必ず離れてしまうからだ。
自分から進んで興味をもったものしか、残らない。


なぜか、「あなたとは話が合う」と言われた人と飲み会に行くこと数回・・・・。
私は・・・、あまり話が合うとは思っていないのですが、相手がそういうものだから、
何となく付き合ってしまう。

私としては、相手に、「もっと世界を拡げた方がいいのではないのか」と思ったりする。
でも、そんな話はしないのですが。
最近は誰かの受け売りの話というものにあまり反応しなくなっているので、
何何の本にはこんなことが書いてあって、
こんな奇跡的なことがあって、
この人の言っていることは真実だ。
とか、
とか、
その手の話には疑問を抱いています。
だから、私の信念とか、今信じていることなんかもいつか変わってしまうのではないかと思っています。
だから、これしかないとか、
これが最高だとか、
これが真実だとか、
そんなことは、言えない。

その時に、
その人にとって、
真実である。

おわり。

ということになります。

なので、相手の信念と自分の信念と照らし合わせてどうのこうのという、一種の水掛け論的な話には、乗らない。
どちらかというと、対話形式。
コミュニケーション。
コラボレーション。

相手の経験を自分の経験とする。
相手の体験したことを喜ぶ。
それは、私というものはないと感じているからだ。
相手が経験したことは、「わたしたち」の経験だと感じているからだ。

それにしても、話をしていると、やはり感情が出てくる。
その感情は、押し殺すことなく、その場で表現する。
喜怒哀楽。
そして、その場でおわり。
連鎖はない。
その時の真実。
「今」の話、「今」の真実は、「今」で完結。
出来事も然り。

だから、それぞれの真実を体験し、
世界が、
人類が、
進化しているのだとしたら、
それでいいのだと思った。

ただそれだけであり、
未知が既知となり、拡大するのだろうか。

わからないけれども、
真実は、
それぞれにある。

その人が、その時に、そう「今」感じたことが真実であり、
真実は変化する。
変化していることが真実なのだろうか・・・と思う。

できれば、
笑って、
楽しく、
「今」を生きようと思う。
それは、ただ、愚痴っぽいことや、悲しげなことや、そんなことを聞くのが嫌になってきたから。
そんなことも、あんなことも、
ジョークにしてしまえ!っていうノリがあるかもしれない。

自分の人生で言えば、「悲惨過ぎて可笑しい」とか。
「演技にはまりすぎていて、可笑しい」とか。
人のことは笑えないけれど、自分のことだったら笑えるから。
バカになるって感じで。

頭から、マインドから、知識から離れて、バカになってみると、
意外と楽しい。
スッキリして、軽くって、可笑しい。
ハートとか、ハートの奥にあるもっと高い何かは「笑っている」から。
だから、「笑ってしまえ!」って感じが伝わってくる。
というか、「笑える」。

何ものをも乗り越えていける「笑い」とは、おもしろいとか、お笑いとかの「笑い」ではない。
軽快な笑い。
道化師の笑い。
ジョーカーの笑い。
何者でもあり、何者でもない者の「笑い」だ。
軽さなのだ。
軽さ。
重力に縛られない、無重力であるための「笑い」
仮面の下には「笑い」が潜んでいる。
仮面をはぎ取れ。

それは時間と空間から自由になって、ただ笑っている。
言葉はない。
ただ、気を付けないと、その笑いはシャープさを持っている。
一瞬のすきをついてくる。
緊張と弛緩の同居だ。
かたまって、ゆるんでいる。
真剣であり、ジョークでもある。

どんな笑いか・・・・・。
ご想像のとおり。

鏡のように、
道化師のように、
仮面のように、
あなたの思ったとおりを映し出す。
ワイルドカード。

ふふ。

Joker_black_02.svg.png

または、
トリックスター、
愚者。

The Fool

RWS_Tarot_00_Fool.jpg

posted by zone88 at 03:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

とても変なJAPANデス。 Pet Shop Boys - Flamboyant

欽ちゃん&香取慎吾の「新!仮装大賞」がなぜかPSBのPVに・・・!!!
うううぅ(泣)
PSBのファンなのに、このPVを知らなかったのでした。
ニール・・・ごめんなさい。
(ここであやまってどうするんだ)



日本語が何だか・・・翻訳機で訳したようになってるよ。
CMも何か、日本的なんだか、何なんだか???

新宿が舞台です。

レモネード♪・・・・「ハイ!」。。。 めちゃくちゃ日本語読み。
TELEVISION 寿司 広告
ロマンスが死んでいるがある
私はペットショップの男の子を愛す
ボクシーカー(BOXY CAR)・・・・って、めちゃくちゃ日本語読み。
幸せ!
!!火炎式

めちゃめちゃ・・・・です。
これって、外国から観た日本ってことなのか???

まあ、しかし・・・、日本の広告もやたら英語が多いけれど、意味不明なものが多いかもしれないし。
外国人から観たら、苦笑!!ってものがTシャツに書かれていたりしますから・・・。
同じですね。



でも、ニールとクリス・・・かわいいです。
特に「レモネード♪」って手を振っているのとか、
シャンプーなのか、何なのかわからない公告で「幸せ!」とか。


でも、サウンドはGOODです。
さすがです。

こういうのが好きなんです・・・ねえ、ニール様。
HAPPYにしてくれて、ありがとう。

ジョーク、ジョーク。

きっと、来日していた時にテレビを見て、欽ちゃんの仮装大賞を観たんでしょうね。
こういうの好きそうだし、二人共。

しかし・・・・、欽ちゃん風に言えば、「何でこうなるの?」ってな感じですねえ。(笑)


ちなみに、Flamboyantの意味は、


1 〈色彩などが〉燃えるような, あざやかな, けばけばしい, 〈文体などが〉きらびやかな, 華麗な, 〈人・行為が〉はでな, 大げさな.


2 ((しばしばF-))《建築》フランボワイヤン様式の, 火炎式の:15-16世紀フランスのゴシック建築.

ということは、「派手?」
でも、PVの最後に「火炎式」と出てきますので・・・、ゴシック建築のように派手?大げさ?
確かに、すべて大げさ・・・かも・・・です。
CMも。
でも、欽ちゃんの仮装大賞は派手ではないでしょう。大げさにも思えませんがねえ。
理解不能です。


ととと、、、ところで、
今日、電車の広告で欽ちゃんの本を見ました。
ダメなときほど運はたまる』というタイトルでした。

欽ちゃんつながりってめったにないことですから、何かありそうです。
何だろう???
笑い?
PSB?
何?
何?
本を買って読んでみるしかないですかねえ。
何か、きっと、ヒントとかメッセージが書いてあるかも・・・です。

だって・・・・、PSBのPVを観なかったら、欽ちゃんの本には・・・、目がいかなかったんですから。
何なんだろう?
ジョークみたいな話です。
私の人生はジョークなのか?

posted by zone88 at 01:08| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月14日

ピアノ組曲「ドリー」-ガブリエル・フォーレ

フォーレは19世紀のフランスの作曲家ですが、
この「組曲ドリー」を初めて聴いたのは、カティア・ラベックとマリエル・ラベックの姉妹の演奏でした。
ちょうど、ラジオでフォーレとサン・サーンスの特集をやっていた時でした。
とても印象深かったので、今でもそのラジオのパーソナリティの語りがよみがえってきます。

ドリーという名は、フォーレがかわいがっていた子供の愛称です。
エレーヌ・バルダックというのが本当の名前だそうですが、その子供の名前をなぜ思えていたのかいうと、
ラジオのパーソナリティが解説していたからなんですね。
それだけこの曲は印象深い。
もともとドビュッシーなど19世紀の音楽やアートが好きなこともあって、
その時代の風が感じられるものにはたぶん反応していたんだと・・・。

久々にドリーを聴きたくなって、youtubeでいろいろ聞き比べてみたところ、
マグダ・タリアフェロさんの演奏が素晴らしかった。
たぶん、当時聞いたラベック姉妹のよりも良かったんです。

Wikiによると、
マグダ・タリアフェロ
Magda Tagliaferro, 本名:Magdalena Maria Yvonne Tagliaferro, 1893年1月19日1986年9月9日)はブラジル出身のフランスピアニスト

・・・ということです。


ま、ともかく、この「ドリー」という曲は、とても楽しげで、明るくて、子供のように純粋な感じです。
それに連弾(ピアノ2台)の曲なので、またまた楽しげです。



フォーレの「ドリー」は子供たちのピアノ練習曲としても有名なんでしょうか、
youtubeではその類の動画がわんさか出てきます。
なので、それ以外を探すのは大変なくらいです。

なので、 Fauréの名前で検索しまして、
このマグダ・タリアフェロさんの素晴らしい演奏に出会ったわけです。
フランス音楽を専門的にやっていた方のようで、なんと93歳まで長生きされています。
92歳のときの演奏の動画もあり、すごいなと思いました。

上手いはずだ。
調べてみると、フォーレに要望されて、演奏旅行にも同行したということです。


まあ、そんなことよりも、この曲はフォーレのドリーに対する愛情がとても感じられる曲なんですね。
普遍的というか、子供に対する愛情とか、子供自体の明るさとか快活さとか、純粋な感じがいいんですね。
大人になると忘れてしまうもの。
そんなものがこの曲には現れていて、真珠のような感じがしますね。


この曲を聴いていて、「ああ、あのときの感動が再び訪れてきた」と思いましたね。
ドビュッシーなども何度聞いて新たな感動があります。
音楽とかアートって飽きてしまったらそれでおしまいかなって思うことがあります。
短命なものは、やはりそれなりの理由があるのかもしれません。
反対に息の長いものも、やはり理由が・・。

いつ聴いても、いつ観ても、新しさがあり、感動があるというのを「普遍」ってよんだりするのかもしれません。
時代を超えるというのか、時間がない空間に存在することができるんでしょうね。
曲もそうですが、ピアニストとか演奏家も。
そしてアートも。


この曲がきっかけになって、いろいろなものが戻ってきた感じがしています。
戻るとか、思い出すとかです。
それは、本来の自分を思い出すということです。

圧倒的な光の中にいる自分。
すごい幸福感というか、子供のころの幸せ感です。
以前は、たぶん一瞬だったと思うんです。
今は、いろいろ体験した後のことなので、一瞬ではないんですね。
それがずっと続いていたんだということに気付くんです。

昨日、クリシュナムルティとボームの対談「時間の終焉」という本を購入したので、
幸福な時間と空間の中で、読もうと思っています。

posted by zone88 at 21:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月12日

自己の脱落

ひょんなことから下記のおじさんの動画をみつけました。
たぶんクリシュナムルティで検索した結果だと思いますが・・・。



自我についてですが、結構わかりやすい内容でした。
他の動画もあるのですが、クリシュナムルティ、仏教関連の内容です。

観照している者と対象について・・・とか、
それを一体化するとか・・・。

自我ってもともと無いって話です。
理論でわかっても、どうしても体感できないのが人間ってものですが、
でも実践的にいろいろ話をしてくれているので、
わかりやすいなと思いました。

無重力の感覚とか、(体が軽くなる感じ)
心理的時間の終わりとか、
この言葉だけ聞くと、??って感じですけれども、
噛み砕いて話すとわかりやすいんだと思います。

私も、もっといろんな人と共通の話題で語り合えたらいいなあと思いました。
ブログだと一方通行って感じもしますし、
対話をすることで、、いろんな方向が見えてくるんじゃないのかなと思うからです。


最近、興味があるのは、ドロレス・キャノンさんのヒプノセラピーです。
一般のヒプノ(退行催眠)とはだうぶ違うようです。
潜在意識が話をし出すのですが、潜在意識は「私たち」という言葉を使います。
だから、個人ではないってことですね。
個、特に肉体っていうのは乗り物というか幻想なんだなと思いますね。
しかし、この場合は前世に退行するので輪廻転生が前提にあります。
そして、ドロレスさんのセラピーの場合は、宇宙人の前世が多く出てくるのがすごいなあと思います。
ドロレスさんは、「この星の守り手たち」という本を出しています。(日本語訳はこれだけです)

http://bluestaryouzi.blog133.fc2.com/

↑「ブルースターのスピリチュアルエッセイ」さんのブログで、いろいろ情報が出ています。
11月には来日セミナー(日本では初)があるようです。
出てみようかどうか、迷っています。


どちらにしても、肉体っていうのは「私」ではない感じが強くなっています。
では、魂?とかハイアーセルフ?って話になりますが、
また真我とかって呼ばれ方もしますが、
分離というのは幻想なんだなあという感覚も、いよいよ強くなっているこの頃です。

だから、葛藤が少なくなっているし、
いろんな現象が起きても、その場で完結というか終了してしまいます。
「怒りが現れる」→それで終わり。
以前は、
「怒りが現れる」→「原因は何だろうと探す」→・・・・・。
こんな連続性があったんです。
しかし、この連続性こそが、「自我」なんです。

だから、連続性を終わらせる。
終わらせるには、いろんな方法がありますが、
1 怒りそのものになって、終わる。
2 溜まっていた怒りが出てくれたなと、感謝して終わり。
3 怒ってるなあと感じたら、それで終わり。

とにかく、連続性を無くす。
それだけなんですね。

怒りの原因を探す「自我」」こそが曲者。(笑)

どこまでも「自我」の消滅なんですね。

でも、ここで疑問が・・・・。
でも、必要でないものは現象として現れないのではないの?ということ。
・・・・ということで、私の場合は、
「ああ、良い体験をしたな」と思うことにしています。
それで終わり。
体験する者もいません。
ただ体験だけがある。

無我ですね。
無為ですね。

エックハルト・トールさんも同じことを言っていますね。
この方も、禅とか公案。


とにかく、今日の結論としては、

私は肉体に限定されていない。
脳が私を肉体であると錯覚している。

「奇跡のコース」も同じことを言っています。

そして、悟っても・・・・・、現象自体は変わりません。
捉え方が変わるだけです。
ただ、無重力と時間の終焉を感じられるかもしれません。
posted by zone88 at 00:06| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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