2013年12月17日

無明

いきなりですが、これまで背負ってきたものが無くなった感じがしています。

背負ってきたものというのは、内なる闇みたいなものだったのかなと感じています。

大体、精神世界に興味を持つ時点で、自分の内に向かうことになるので、
外にも内にもいろいろなものがあるのだと観えてくるわけです。
一番大きなものは、恐怖。
本当は恐怖は幻想なのに、それに怯えている小さなエゴを観るわけです。

私の順序としては、

1 神はいるのか?
2 救世主は誰なのか?救世主はいるのか?
3 神とは何か?
4 内なる神とは?
5 陰謀とは何か?
6 闇とは何か?
7 自分とは何者なのか?
8 他者と自己
9 エゴとは?
10 無明とは?

既成宗教→無宗教→精神世界→陰謀系→内観→自立

こんな構図です。

団体に関わり、個人になり、また団体に関わり、そして自己に戻る。

二元性を統合すること、二元性を超えることがどれだけ大変なことか・・・・。
このブログはこの「二元性を超えたい」ということから始まっているとも言えます。
必ず通らなければならない「二元性」。
それが三次元であり、これまでの地球であったから。
最大の難関。
闇の底に行くしかなかったのだけれども、それは自分が選んだことだ。
だって、闇を照らす光となると決めてきたのだから。
一端闇になったとしても、必ず
光に戻ると決めていたのだから。
(太極図のように)
もっとも遠くまで旅すること。


陰謀系とエゴ、そして内なる闇は同じものだったと気付くと、「無明」ということに気付く。
無明とは、「闇とは光があたっていないもの、ところ」というのが、言葉や知識ではなく、
己で経験する。

闇を排除することなどできない。
エゴを排除することもできない。
ただ受け入れ、認め、抱きしめ、感じること。
そして、光をあてる。

これは、団体に属してできるものではなく、
自分ひとりで黙々と行うものだ。
あくまでも自己の内と向かい合って、外に現れていると思われる投影を観る。
充分に、これでもかとこれでもかと思われるほどに繰り返して現れるエゴや闇に向き合う。
そして、充分に受け入れ、体験し、過ぎ去るのを観る。
観照する。
自己を観照し、内観し、外観し、観る。
観ることが光をあてること。
そして、受け入れる。
自己の内にあったのだとわかる。
すべて自己の内で感じるもの。

それは日常であり、人生すべて。
光であること。
松明を灯して歩くように、人生をただただ灯りを照らして歩む。
誰も気が付かないかもしれない。
誰にも観えないかもしれない。
しかし、光となって歩く。
人生を歩んでいく。

闇であったと思えたものは、無い。
光りをあてれば、そこは明るく照らされて、すべてが観えてくる。
観えてくる。
真実の姿が観えてくる。

闇は幻想であった。

もう恐れるものはない。
光りとなって、灯りを灯して歩むだけだ。

これからもいろんな闇に出会うだろう。
しかし、もう恐れない。
「物事は見た目どおりではない」

体感すること。
光として歩むという体感、感覚をつかむこと。

頭脳は、心や魂に従う。
細胞もDNAも心や魂に従う。
魂は、ハイアーセルフなんて言われるものと同じ感覚だ。
内なる神とも。

これまでは、頭と心がバラバラで、エゴとハートが喧嘩して、主導権争いをしていた。
分裂症みたいに。
しかし、スーッと、エゴや頭脳や細胞たちはDNAは、ハートや魂に従い始めた。
重い体を引きずることも、もうないだろう。
もう一体化しているから。
体はスーっとついてくる。
体は頭脳は、細胞は、快く共に歩んでくれる。
もう考えることもない。

ただハートとともに、魂と共に、それにしたがって歩むだけだ。

何と清々しいのだろう。
生まれて初めてだ。
こんなに清々しい気持ちになったのは。

これからだって、いろんなことが起ってくるのだろう。
しかし、もう大丈夫だ。
生きていることが、存在していることがすべてだ。

魂の故郷に戻りたいと思っていたけれど、
今はその故郷をここに創ろうと思っている。
今、こここそが故郷であり、思い出すことでもあり、
帰還でもあり、再創造でもある。

どこまでもどこまでもこの自分で。
他者と自己が一体であると大それたことはまだ言えない。
だって、体感していないのだから。
皆と地球とあらゆるものとのつながり、親しい感じや絆を感じることはあっても、
一体化している感覚はまだつかめていない。
誠実でありたいと思う。

闇は幻想だ。
私はそう感じている。
posted by zone88 at 00:57| 東京 ☀| Comment(29) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月01日

「三国志」と人物、音楽

記事を書いていて、うっかりその記事を消してしまいショックな状態ですが・・・。
めげずに復活させませす。

二十代の頃に読んでいた本に「三国志」(吉川英治版)があります。
私は音楽を聞きながら本を読むことができるのですが、(笑)
これは部屋にいろんな人が居たからで、
他人の会話や声が気になると本に集中できないから、自然にヘッドホンで音楽を聞きながら本を読んでいた時がありました。

その本が「三国志」。
劉備、関羽、張飛、曹操、孔明などの人物が印象深く残っています。
乱世に生きた彼らの生き方を知り、二十代のはじめにどのように生きていったらいいのか思っていた私は、
影響を受けていたかもしれません。 というかかなり影響を受けたと思います。
劉備の人徳、情、関羽や張飛の勇気、孔明の智や徳、曹操の智や情、いろんなものが入り交じった人というものに、
ひどく魅力を感じていた。
スケールの大きさというのもあるでしょうし。

そのスケールの大きな小説を読みながら、海外のポップスをBGMにして聞いていた。
だから、その音楽を久々に聞いたら、あの小説の世界が蘇ってきたというわけです。
二十代に感じていた、あの昂揚感のような感じが。

人物としてはやはり孔明が印象深いですね。
音楽を聞いていても、孔明に感情移入して読んでいたんだなとわかる。

私の孔明のイメージは、多くの人と同じく、白いイメージと白羽扇ですね。
軍師としての「智」はもちろん、人義礼徳信という五徳がすべて備わっている人として浮かんできます。
小説を読んで以来、三国志に登場してくる五人の生き方が少し染み込んでいる感じがしたものです。

横山大観が代表作として「屈原」という絵が厳島神社にあります。(「屈原」は紀元前に実在した人物です)
その絵が私としては孔明のイメージにあります。
人物というよりは、全体の雰囲気、情景が孔明が生きていた時代にぴったりだなと思ったわけです。
たぶん、孔明が生きているとしたら、あんな感じのところで思索していたのかもしれないと勝手にイメージするのです。
人物はたぶん、もっと線の細い感じかもしれませんが。

最近、いろんなことをイメージで追体験しているようなことが多く、
そのひとつとして、孔明が出てきました。
その時代人のことを知るには、その人物に感情移入して、その時代に生きているような感じで、
擬似体験してみると面白いなと思うんです。
映画などもそうだと思うのですが、自然にその人物になったつもりになって、追体験できる映画って
きっとみんなが感動できるものなんだと思うのですが、
そんな感じで、追体験、擬似体験している。

私は、孔明は感情移入しやすい人物で、憧れの人物でもありますから、
今でもありありとその小説を読んだときの自分の勝手な孔明像を追体験している感じでもあります。
孔明は五丈原で亡くなっていますけれども、五丈原と聞くだけでも、イメージがワーッと拡がってくるんですね。
それだけ孔明という人は私にとっても魅力的な人物です。
乱世の時代に、天を見つめて何を考えていたんだろうなと孔明に思いを馳せることがあります。
同じ人間なんだよな・・・と。

もう一度読み直してみようかな。
それともアニメを見てみようかな。(笑)
一度、テレビで映画版の三国志を見た覚えがありますが、孔明がなんか…アイシャドウをつけた感じに描かれていて・・・。
印象がそれでバッチリと入ってしまった感がありました。
案の定、涼しい目元が印象に残っていますが、
どうしてもアイシャドウ的に思えてしまう。(笑)

ゲームの「三国志」のイメージはいいですね。
あれで三国志にはまった人も多いかもしれません。
孔明、かっこよすぎ。(三国志12)

というとで、私の人生を通してずっと憧れにあるのは諸葛亮孔明でした。

posted by zone88 at 23:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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