2013年12月17日

無明

いきなりですが、これまで背負ってきたものが無くなった感じがしています。

背負ってきたものというのは、内なる闇みたいなものだったのかなと感じています。

大体、精神世界に興味を持つ時点で、自分の内に向かうことになるので、
外にも内にもいろいろなものがあるのだと観えてくるわけです。
一番大きなものは、恐怖。
本当は恐怖は幻想なのに、それに怯えている小さなエゴを観るわけです。

私の順序としては、

1 神はいるのか?
2 救世主は誰なのか?救世主はいるのか?
3 神とは何か?
4 内なる神とは?
5 陰謀とは何か?
6 闇とは何か?
7 自分とは何者なのか?
8 他者と自己
9 エゴとは?
10 無明とは?

既成宗教→無宗教→精神世界→陰謀系→内観→自立

こんな構図です。

団体に関わり、個人になり、また団体に関わり、そして自己に戻る。

二元性を統合すること、二元性を超えることがどれだけ大変なことか・・・・。
このブログはこの「二元性を超えたい」ということから始まっているとも言えます。
必ず通らなければならない「二元性」。
それが三次元であり、これまでの地球であったから。
最大の難関。
闇の底に行くしかなかったのだけれども、それは自分が選んだことだ。
だって、闇を照らす光となると決めてきたのだから。
一端闇になったとしても、必ず
光に戻ると決めていたのだから。
(太極図のように)
もっとも遠くまで旅すること。


陰謀系とエゴ、そして内なる闇は同じものだったと気付くと、「無明」ということに気付く。
無明とは、「闇とは光があたっていないもの、ところ」というのが、言葉や知識ではなく、
己で経験する。

闇を排除することなどできない。
エゴを排除することもできない。
ただ受け入れ、認め、抱きしめ、感じること。
そして、光をあてる。

これは、団体に属してできるものではなく、
自分ひとりで黙々と行うものだ。
あくまでも自己の内と向かい合って、外に現れていると思われる投影を観る。
充分に、これでもかとこれでもかと思われるほどに繰り返して現れるエゴや闇に向き合う。
そして、充分に受け入れ、体験し、過ぎ去るのを観る。
観照する。
自己を観照し、内観し、外観し、観る。
観ることが光をあてること。
そして、受け入れる。
自己の内にあったのだとわかる。
すべて自己の内で感じるもの。

それは日常であり、人生すべて。
光であること。
松明を灯して歩くように、人生をただただ灯りを照らして歩む。
誰も気が付かないかもしれない。
誰にも観えないかもしれない。
しかし、光となって歩く。
人生を歩んでいく。

闇であったと思えたものは、無い。
光りをあてれば、そこは明るく照らされて、すべてが観えてくる。
観えてくる。
真実の姿が観えてくる。

闇は幻想であった。

もう恐れるものはない。
光りとなって、灯りを灯して歩むだけだ。

これからもいろんな闇に出会うだろう。
しかし、もう恐れない。
「物事は見た目どおりではない」

体感すること。
光として歩むという体感、感覚をつかむこと。

頭脳は、心や魂に従う。
細胞もDNAも心や魂に従う。
魂は、ハイアーセルフなんて言われるものと同じ感覚だ。
内なる神とも。

これまでは、頭と心がバラバラで、エゴとハートが喧嘩して、主導権争いをしていた。
分裂症みたいに。
しかし、スーッと、エゴや頭脳や細胞たちはDNAは、ハートや魂に従い始めた。
重い体を引きずることも、もうないだろう。
もう一体化しているから。
体はスーっとついてくる。
体は頭脳は、細胞は、快く共に歩んでくれる。
もう考えることもない。

ただハートとともに、魂と共に、それにしたがって歩むだけだ。

何と清々しいのだろう。
生まれて初めてだ。
こんなに清々しい気持ちになったのは。

これからだって、いろんなことが起ってくるのだろう。
しかし、もう大丈夫だ。
生きていることが、存在していることがすべてだ。

魂の故郷に戻りたいと思っていたけれど、
今はその故郷をここに創ろうと思っている。
今、こここそが故郷であり、思い出すことでもあり、
帰還でもあり、再創造でもある。

どこまでもどこまでもこの自分で。
他者と自己が一体であると大それたことはまだ言えない。
だって、体感していないのだから。
皆と地球とあらゆるものとのつながり、親しい感じや絆を感じることはあっても、
一体化している感覚はまだつかめていない。
誠実でありたいと思う。

闇は幻想だ。
私はそう感じている。
posted by zone88 at 00:57| 東京 ☀| Comment(29) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月23日

体感ということ、共感覚ということ。

物事を知るには、体験するのが一番だと思いますが、
これは誰でも感じていることだと思います。

絵に描いた餅とか、
百聞は一見にしかずとか、
いろいろことわざもありますしね。

体験に似ているのが、疑似体験かもしれませんね。
イメージで追体験するとか。
同じイメージ、感覚を共有するとか。

共感覚などもあります。

最近、共感覚ってものに興味をもっています。

隠れた感覚ですか。
wikiで調べると説明が出ていますが、文字に色とか音とか、味とか、形などを感じたりという特殊な感覚のことを言うらしいです。
感覚的な言葉とか表現ですよね。

よくサイキックの人が写真からいろいろな情報を読み取ったりしますが、あれは共感覚のもっと進んだ特殊なものなんでしょうね。
五感以外の第六感とか、直感とか、通常では感じられないような感覚で感じられると、
世界はもっと違ったものに見えるでしょうね。

また、世界が突然光り輝いて見えたりする人がいます。
また万物すべてに自分を感じたり、
無重力のように重力を感じなくなるなんて体験も聞きます。

この体験がしたいっていうわけではなく、何かの結果としてそういう現象が現れてくるって感じかもしれません。
バロメーターにしたいわけでもありませんが。

究極、「超能力者になりたい」などというものと同じ現象になってしまうので、
気をつけなければならないかもしれません。


共感覚になると、通常では気が付けない感覚を感じられるので、
それが面白いなとか、そんな感じで常軌を逸しない程度で活用できたらいいなと思っています。

何で共感覚の話題になったかというと、
「エネルギーを感じていることを自覚したい」ということがあるからかもしれません。
五感や六感や直感や感覚的なことで、もっと幅を広げたいのかもしれません。
表現の幅を拡げるとか。

豊かな表現力ですか。
このあたり、もっと探求したいと思います。
もちろん、意識なんかも深く関連していると思いますから。




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2013年11月05日

カルガモで、のんびり&ほのぼの

公園で偶然みかけたカルガモの一行です。
観ているだけで、幸せな気分になりました。

duck.JPG




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2013年11月04日

理屈とか証拠とか、突き詰めたらきりがない。

矢作直樹さんを初めて知りました。
ある動画にゲスト出演されていたのですが・・・・、お医者さんです。
誠実で謙虚な方だなと思いました。

雪山で落下されて、特異な体験をされてから、いろいろ変化があったようです。
「良心ってなんであるんだろう?」とか。
素朴な疑問ですが、なかなか答えられない質問だし、
それこそいろんな答え方や感じ方があるんだと思います。

ハイヤービーイングとかって言葉が出てきますけれども、
私は、スピリチュアル用語ってものを使っての話って、あまり好きな方ではないんです。
だって、普通の会話にならないし。

ただ、言えることは、科学は万能ではないし、未知の領域はたくさんあって、
「知らないことだらけだ」ということ。

そして、
「理屈では説明できないけれども、人は死なないってことを感じている」ってことです。(肉体は亡くなるけれど)
学校で教えられてきたことは、時代を経れば変わるし、日々新しい発見がある。
科学もいろんな学問も、わからないことだらけで、
ただ、人それぞれ感じ方が違い、それぞれの世界があるんだと感じています。

それが、人ってユニークであり、唯一であり、かつ全体ある・・・みたいな感じだと思うんです。
波動の高い領域では、どんどん繋がっていく。
最後には原初というか、高次の何か、創造主というものに繋がっている。
それらも、理屈ではない。

そうであるならば、人々は助けあい、分かち合い、歓びあい、共に生きられると思うから。

純粋無垢であることがそういうものを感じられるキーだと思います。
だから、私自身もそうあるように、生きている限り目の前のことに精一杯取り組み、生きる。
生き切る…と言うか、生命の元は、ただ生きることを選択している気がするからです。
自然のままに。
エゴゼロで。

・・・・、知らないことだらけですが、いろいろ知りたい。
たぶん、どこまでもでしょうが、
エネルギーを感じられたら、ずいぶん違った観え方なんだろうなと感じます。

この配信を行っている「ビデオニュース・ドットコム」は、広告に依存しない報道としてのインターネット放送局ということです。
コンテンツは有料配信で、一か月525円の会員制です。





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2013年10月30日

一ヶ月以上も更新しないという私的な新記録・・・とお伊勢参り

皆さま、ご無沙汰しております。
ちょこちょこと読んで下さっている皆さま、お待たせしました。
(誰も待ってないって????)

一ヶ月以上ブログを放っておいたのは、意図的でもなんでもなく、
ただ・・・、いろいろ動き回っていたので、気がついたら、今になってしまったということです。

伊勢神宮は今年遷宮の年ですが、お伊勢参りに行かれている方も多いのではないでしょうか?
私も、行ってきました。
ついに。
初めて行きました。
感激ですね。

御正宮は、テレビなんかでは鳥居の前までは撮影可ですが、その奥は撮影不可なので、
どうなっているんだろう???って興味津々ですよね。

行ってきましたよ。
驚きましたね。
ある意味・・・・、驚いたということです。

何をお願いしたのか・・・・ですが、
「何もお願いしませんでした」・・・といいますか、決意表明みたいな感じになってしまいました。
事前に私事は荒宮でしかお願いしてはいけないと聞いていたので、
御正宮では、どうしよう???とかった思っていたら、あっという間に順番が来てしまって・・・。

何せ、ものすごい混んでいたので、たどり着くだけでもういいですよ。
ありがたい。
昔の人みたいですが。(笑)
たどりついたときには、何もお願いしていなかったーーーーーーってことになっていました。

あとは、いろいろ別宮とかにも参拝しましたね。

伊勢市駅から五分のところには「外宮」がありますが、そちらは「内宮」に行く前に行ってきました。
外宮も、もれなく、すごい混雑。
どこからこんなに人が・・・・・・・・・・・・・・・・・、というくらい。
案の定、タクシーはつかまらず、バスにも乗れず・・・。
食事する場所も限られており、
お昼近くに訪れたので、もうお昼にありつけずに、お腹がすいたのも忘れるくらいでした。

やーーーーっとタクシーが奇跡的につかまり(それも、伊勢市駅ではなく)内宮へ。


例の、
うどんも食べました。
普段食べたら、きっとビミョウな感じのうどんですが、あの場で食べると「とってもおいしい」のでした。

どなたかが言っていましたが、
「伊勢うどん」をおみやげに買って、家で食べたら、ビミョウだったと。(笑)
まあ、コシがないうどんだし、つゆも特有な感じなので、伊勢参りにぴったりのうどんなんだと思います。

まあうどんはいいとして。

伊勢神宮はものすごい広くて、きれいで、神聖な感じがして、
一言で言うと、
「ありがたや」って感じでした。

でも、現代だから新幹線と電車であっという間に行けますが、
昔の人は一生に一度のことだったんですよね、お伊勢参りは。

村でも代表の人が行ったとか。
それで、面白いエピソードですが、代理に犬を連れて行ってもらったということもあったとか。
ですから、
犬がご主人の変わりに、伊勢まで歩いて行ったということですね。
かわいいというか、なんというか。
犬は、ご主人の願い事を書いた札なんかを首から下げていたのかな?
想像すると、すごいですね。

そんなにしてまで、伊勢は行きたかった、憧れの地だったのですね、日本人にとっては。

弥次さん、喜多さんというのも、お伊勢参りのことを記録したものなんだそうです。
NHKで面白おかしく紹介していました。
wikiで調べてみると、面白いエピソードがたくさんありました。

弥次さん、喜多さんは、お伊勢には「厄落とし」に行ったそうですね。

私も、「厄落とし」できたかな?
結構、いろんな宮をお参りしましたからね。


ということで、お伊勢参りに行かれたことのない方は、ぜひ今年なんか訪れてみて下さい。
御正宮だけでなく、別宮といわれる数々のお宮も、すべて新しくなっていますので、
とーーーってもすがすがしい感じがしますよ。

もう、行くだけでご利益いただけちゃう感じです。
あんな自然の森が日本中に増えてくれたらいいなと思いましたね。

それでは、また・・・近いうちに更新します。(笑)
posted by zone88 at 19:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

再び、「軽さ」について

いろいろなものを抱えている時って、どーーーーんと重い感じがするものですが・・・。
悩みがあるとか、いろいろですが。

で、軽いなって感じる時って、重荷が降りたようなときかもしれませんね。
「解決!」とか。
笑ってるときとか。

でも、その解決って思ったことって一瞬だったりする。
持続しないで、また新たに重荷がのしかかってくる・・・。
この繰り返しなような気がします。

これって、二元性の特徴のような気もします。
だから、逃れられない。
しかし、そこから逃れようとして、ネガティブをむりやりポジティブにしようとして、
仮面をかぶってニコニコしてみたりする。
アファメーションしたり、イメージングしたり。

しかし、
この時点で、既に思考が入っているので、どうしても二元性の世界からは抜け出ていない。
マイナスになったものがプラスにバランスされるのは、物の道理なので、
かならずポジティブはネガティブにバランスされる。

こんな考え自体がもう「重い」感じがします。

だから、
この考え自体を・・・・、「捨てる」。
で、
考えないと・・・、
どっちでもいいじゃん・・・みたいな感じになる。
比較しなきゃいいじゃん・・・・と。
意味づけしなきゃいいじゃん・・・と。
ネガティブ?・・・・それって何?とか。
ポジティブ?・・・・それって英語?とか。
「おばか」になってみる。

何ていうか、それに関わらない。
何ていうか、それをいつまでもひきずらない。
いわゆる「手放す」

「手放す」って・・・・どうやって?

「こういうことが起きた」
「こういう風に感じた」
今までだと、手放すこととそれから逃げることを混同していたように思う。
手放すというよりも、消滅させるとかという表現がいいように思えてきました。

ポジだってネガだってどっちだって同じ・・・と。
それを受け入れる。
受け入れる方向が自分の方向であれば、たぶんそれは消滅する。
変化するとか、変容するとか、そんな感じかもしれない。
外へ手放していたら、たぶん、またやってくる。
手放していない感じだから。
「邪魔だから、どっか行って」みたいな感じになっていたから。

すべてがエネルギーだとしたら、プラスだけ受け取るってことはできない。
かならずマイナスがセットだ。
良いとこ取り・・・・みたいな、今までみたいなことはもう通用しないみたいだ。
物事の展開が速くなっている感じがするし、
どんどん透明性が増してきているから、
外に追いやったバランスされていないエネルギーは、どんどん自分の方向に向かって解決されたいとやってきている感じがする。
もう、すべてを受け入れて、バランスさせて、消滅(昇華)してもらうしかない。

もう「私」というエゴは逃げられない。

感覚だけが頼りかもしれないと思う。
思考(低次の思考)が、エゴそのものだから、
考えたりしたら、堂々巡りだ。

軽さが頼りだ。
軽さという感覚。
感覚を身に着ける。

あるがままを受け入れる。
あるがままに観る。

ごちゃごちゃ考えることに、ろくな事はないから。
※これって実体験です。
posted by zone88 at 18:45| 東京 ☁| Comment(21) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

許すということ・・・と、偉そうな感じ

今朝、何気なくテレビを見ていて、感じたことですが。
「すべてを許す」とか「許しましょう」とかってことはよく言われると思います。
そして、それに賛同する人も居る。

でも、それに対して、「偉そう」だと感じる人も居る。
確かに、許す人は許される人を見下している感じにも見えます。
本当にそう思います。
何を偉そうに・・と。

これって、言葉に出して言うと、ひどい誤解を受けますよね。
「あなたを許します」・・・・・って、「あんた、何様だよ」って構図が見えてきそうです。

『奇跡のコース』なんかでも、愛とか許しとかが出てくるし、
とっても宗教的な感じにも捉えられるし・・・。
捉える人次第ですが。
私は、素晴らしいと感じていますが。

何でしょうねえ。
言葉って限界がある感じがしてきました。
「許す」ことと「許される」ことって同じって感じもするので、
どちらが上でも下でもなくて、
それを気づいた人が許されるって感じでしょうか。

どちらにしても、
すべては自分の中で起こっていることであると捉えるのであれば、
「自分の中で起こっている反応を許す」みたいな感じになるんでしょうかね。
相手を許すって、おこがましい感じがとてもしてきました。
外に対してすることではないよな・・・と。

難しいですね。
posted by zone88 at 23:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

輪廻転生、神などの言葉

私の周りには、精神世界系の話をする人は少ない。
一般的に精神世界の話や、信条の話、政治の話はタブーかもしれないけれど。

その中でも、私がここ数年付き合ってきた人は、いわゆる無宗教とか目に見えないものは信じないとか、
理論ですべてが説明がつくと思っている人たちだ。
しかし、その人たちから、「今度生まれ変わってくるときには・・・」とか、
「神様が私を護ってくれた・・・・」などという言葉が出てくることがある。
たぶん、あまり考えてなくて発した言葉だと思いますが。

よく話してみると、
生まれ変わりの話をしている人は、定年退職するまで無宗教で墓参りもしない、そんな人だったらしい。
しかし、定年後、仏教を聞きかじったらしく、「生まれ変わり」の話をし出し、
先日は魂の話まで出てきた。
でも、生まれ変わるらしい・・・、来世ということだ。

もう一人は、仕事上でうまくいったときなどに、「神様っているもんだね」とか、
そんな話が出てくる。
しかし、その人は死んだら「無」になると信じている人だ。

そんなことなので、話が途中で止まってしまうか、その相手の話を聴くだけということになってしまう。
おまけに私は年下なので、一方的に話を聴くだけということになってしまう傾向がある。
ひとりは上司、ひとりは同僚という関係。

退職したおじさんは、「あなたにしかこういう話はできないよ」などと言って、
生まれ変わりの話やら佛になる話やら、いろいろ話をしてくる。
陰謀論とか。
男性的傾向だ。

もうひとりは、女性的だ。
そして、「死んだら無になる」と真剣に思っている人だ。

どちらも教育とか文化とか信念とかそんなものだと思うけれど、
ものすごい信念だなということを感じる。
だから、話をしても、平行線になることが予測できるので、一般的な話になってしまう。

一方、私は、
輪廻はあるけれども、それは時間という観念があっての世界の話で、
すべてが「今ある」と思っている。
だから、ある意味、輪廻を脱するのだと感じている。
神のことは、名称をつけることはできないけれども、生命の、魂の、あらゆるものの根源はあると感じている。
これも、信念かもしれない。
だって、これはある程度知識と思考が入っているからだ。
真にわかっているかといわれれば、「ただそうなのだ」という答えるしかなく、
証明は無理だと思う。
だって、それは、知識や思考や、あらゆる概念や、信念や、そんなものとはまったく関係がなく、
かすってもいないのだから。

人間から人へ。
人から覚者へ。(覚者とは、便宜上の言葉です)
誰もが親から生まれているのもかかわらず、あまりにも違う。
私も教育を受けてきたし、条件的には同じだ。
なのに・・・。

共通なのは、「皆、幸せになりたいと思っている」だと思うけれど。
でも、私は、これも疑問視している。
理由はわからないけれど。

決定的な違いは、「私」に執着していないということかもしれない。
輪廻にしても、「私」が生まれ変わるということで言えば、「私」の延長だ。
「私が幸せになりたい」のであれば、「私」の延長だ。
この「私」(エゴの私)がなくならない限り、闇は消えることがない・・・と私は思う。
だから・・・・、どうすればいいのかと思う。
何が?
皆が幸せになるには、私は、どうしたらいいのか・・・・だ。
この場合の私は、「無私」の私に近い。
それをいつも思っている。
「無私」で生きていくことで、それが波及するのか・・・。
その方法をとろうとして、この日本に、地球に生まれてきた感じがしているから。
ミッションというものがあるとしたら、私にはそれしか浮かばない。
あらゆる方法で人間は進化しようとして、幸せになろうとして、今がある。
そして、何も変わっていないのだと感じている。(本質的に)
変異、ミューテーション、変体、どんな言葉でもいいけれど、
劇的に人が進化するには、どのような方法がいいのか・・・・と、
いろいろ試してきたのだと思う。
最終的には、たぶん・・・・だけれど、「私たちは繋がっているのだと、それに気付いてもらう為に、人の内部から変容をもたらそう」と
思っていろいろな人が転生してきているのだと感じている。

おこがましい・・・・と言われるかもしれない。
でも、皆と一緒にその変容をしていきたい。
どうすればいいのか・・・・・、そればかり思っている。

とりあえず・・・、
いつも笑顔でいようと思う。
いつも光100%でいたいと思う。
いつも「今」を精一杯生きたいと思う。
どんなことにもポジティブでいようと思う。
強い意志を持とうと思う。
叡智を身に着けようと思う。
そして、無条件の愛でいたいと思う。
posted by zone88 at 01:11| 東京 ☀| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月30日

皆が面白いと思うことに興味がわかないのは・・。

あるきっかけで「コーザル体」のことを調べていました。
これは、思考、特に抽象思考や高次の思考のことを指すようですが、「神智学」を深く学んでいないので、
詳しいことはわかりません。

本(「神智学大要」)もまだ1巻をやっと、ちら見程度にわかった感じなので、
これからもっと理解していきたいと思っています。

ということで、何でコーザル体の話になったかといいますと、
思い当るふしがああったからです。
それは、20代に澁澤龍彦さんの本を読みはじめたあたりからそれは始まりました。
主に美術関連が多かったのですが、それらに触れてから、フランス文学に触れ初め、
フランスの現代思想を知り、構造主義やポストモダンを知り、哲学に傾倒しはじめ、
形而上学とよばれるものに興味を持ち始めました。

それからというもの、友人と話していても、あまり面白い感じがしなくなってきたのです。
それまでも美術系の話などは、あまり一般向けではないので、芸能界の話とかはつまらないなって思っていたのですが、
それに拍車がかかり、一般的なストレス解消的なこと、たとえばカラオケとかアウトドアとか、
井戸端会議的なこととかに、まったく興味を示さなくなりました。

それから、欲望に関してですが、妙に欲望に突き動かされる、いわば欲望が衝動となって
行動することが少なくなっていきました。
だから、「時間を売ってお金を稼ぐ」ことに疑問を持ち始め、嫌気がさしてきました。
いわば、どうでもいい・・・と。

行動の要因は、興味、探究、というように変わり、
友人関係も変わっていったように思います。


ここで、コーザル体ですが、「肉体」の上あたり、ちょうどかぶさる形であるボディが「エーテル」いわゆる「気」のボディといわれるものです。
その上が「アストラル体」、その上に「メンタル(精神)体」があり、その上に「コーザル体(ここから魂の分野)」。
下位にその上位の衝動みたいなエッセンスがある感じです。


神智学大要第1巻にある「図表13人間の構造」によると、



アーディ                                               モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アヌパーダカ                                       モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アートマー(涅槃)            (霊)                    モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
ブッディ                  (直観)                   再生する魂(高我)
  ↑         ↑
高位天国  コーザル体       (観念化)
  ↑         ↑
下位天国  メンタル体        (具象思考)         低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
アストラル  アストラル体      (個人的感情、衝動)   低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
物質     物質体・エーテル体  (肉体による行動)    低我=マスク・仮面


上記のような表になります。
興味のある方は、「神智学大要」をお読み下さい。


この表を見ると、私自身がたどってきた感じがよくわかりました。
大体、個人的感情、衝動、具象思考、観念化のあたりを行ったり来たりしていたんだなとわかります。
一般的な場合は、下位のメンタル層の精神が、その下のアストラル界の欲望と複雑にからんで、
それが衝動となって行動に移っていることがわかります。

そこから抜け出すために、「瞑想」を始めたり、スピリチュアルに走ったり(笑)するんですねえ。
一般的だと、哲学とか心理学など学問系にも行きます。
なので、この段階になると、仮面をかぶったメンタル界層とか、たまに直観がきたり、
観念とか抽象思考とかをしたりするんですね。


私の場合は、思考の限界をとても感じていました。
これ以上は考えられない、調べても、探究してもわからない。
直観だけが頼りってことになってきました。
それと、抽象思考になって、ぐるぐると堂々巡りとか、そんなパターンでした。

そんなことで、今は、クリシュナムルティの「時間の終焉」を読んでいます。
一端、その枠から外れるということをしようと。
それから、「頭」(思考、知識、経験など)に意識を向けないで、ハートとか魂の方に意識を向けるようにして、
考えないようにしています。
あるパターンから抜け出るには、また、囲い(自分で創っている)から抜け出るには、
思考を使ってしまってはダメだと感じたからです。

そんなことをしていると、何と、「子供」みたいになっていくんですね。
子供のような純粋なもので動いている感じというか、動機ってものがない感じなんですね。
あるとすれば、良心とか、そんなものです。

ハイアーセルフとか潜在意識と一体化するとか、繋がるとかって、
頭とか知識からではダメなんですね。
やはり、実感するものなんだと思うわけです。

今は、どういう状態かと言うと、
低我の部分が上がって、高我の部分が出来るだけ下がってきている感じ(一時的)なんですね。
お互いの協力が必要な感じで。
たぶん、合体(笑)するのは、コーザル体あたりからなんでしょうか。
もしくは上位メンタル体あたりかも。

これが、スピ系で言う次元の構造ってものかもしれませんね。
三次元というのは、肉体次元ってよく言われますし。
五次元ってどのあたりなんでしょうね?

体感で言うと、上記のピラミッド構造とあわせて、円というか、同心円を描く感じにもなると感じています。
どんどん拡大していく感じですね。
意識の拡大って、こんな感じを言うのだと思います。

というわけで、言葉とか思考とか知識とかは、もはや通じなくなる地点がやってくるのは確かだと思います。
でも、それを体感して、わかりやすく言葉にしていくってことも、誰かの役にたつことかもしれないと思っているので、
今、こうして文字にしている訳です。

クリシュナムルティによれば、思考とか説明とか、そんなことをした時点で、
そのパターンに(囲いの中)に戻ってしまう・・・ということでした。
だから説明は無理かもしれませんね。
実感するのは、本人でしかなく、誰も替わってあげられない。


世界中の人の意識が拡大したら、世界ってものすごく、劇的に変わるんだろうと思います。
私もその世界のひとりであり、ひとりひとりで世界は出来ている。
水の波紋が広がるように、その一滴となるように、生きていきたいと思います。


posted by zone88 at 00:47| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

自分とか私の違和感

最近、「私の場合」とか「私は」とかという言葉を使うことに違和感を覚えてきました。
それは、たぶん思考とか考えている時には思いもよらなかったことです。

これは、昨年から自分の中心を頭(脳、知識、経験など)からハート(心とか魂とか)の方に移行してからの感覚です。
私なるものはいないんじゃないのか?っていう感覚になってきたんです。
特に肉体とか、所有の感覚とか、執着の感覚とかの私です。

確かに肉体はあって、見えていて、こうしてパソコンのキーボードに触れているという感触はあるのですが、
他と別個の私という感じに違和感を覚えます。
だから、他と一体化した私という言葉にも変な感じがします。
すべての一部である私っていうのも何か違うんです。
じゃあ、全てであるの?っていうのもまた違う気がして、私たちっても何か・・・。

でも、
ただ、「私」っていう感じ方が変わってきているのは確かです。
孤独感を覚える「私」はなくなっている。
何かにしがみついている「私」とか、
何かを気にしている「私」とか、

では、どういう「私」感覚なのかというと、
何かと溶け合っている感じなんですね。

たぶん、ハートだけを感じているんだと思うんです。
ハートの感じって、「今」しかなくて、
それと一体化してしまうんです。
だから、「私」という別個のものがなくて、
何にでもなれる感じなんです。
それを観ている何かもいない。

ただぷにぷにしたハートが確かにあって、他はあまり存在感を感じない。
それも、そのハートっていうのが実体があるわけではないんですが、
その方がハート以外よりも現実感がある。

面白い感じです。
思考を通っていない感じで、ダイレクトそのものを直ちに感じる・・・これもまだ回りくどい言い方ですが、
やはり、境界がないっていうのが一番近い感覚かもしれません。

私=あなた・・・・とかってことがよく悟り系で言われますが、
またすべてが私であるとか、
すべてが神であるとか。

そういう感じはまだなくて、
ただ今までの知識の塊の私ってものにはとても違和感を感じ、それではないと確信しているって感じかもしれません。

そして、それって、とても軽くて気持ちがいい。
軽快な感じで、
明るくて、
単純で、
純粋で。

でもどっしりと地に足はついている。
確かに地に足をつけて、しっかり生きているんです。

まあ、ハートにセンタリングすると、
楽〜〜〜ちんです。
そして、嬉しい感じとか、
楽しい感じとか、
ニコニコしているとか、
そんなものが出てくる。
自然に。

本当はこっちなんじゃないのかな?現実って。
そんな感じがしています。

いろいろ知識でがちがちになっているよりも、
それらを地で生きている感じで、
でも、複雑じゃなくて、
とても単純だった。

それぞれが感じることが真実なんじゃないかなと思うので、
私はこの感覚を大切にしていきたいと思います。

こんな思いに皆がなったら、素敵だろうになと思います。
だって、すべてのことが大好きになるんだから。
一緒にいるのが嬉しい。
ただ居るだけで嬉しい。

ハートとハートでつながったらどんなに素敵だろうか。
みんながみんなのことが好き。
子供の頃ってそうだったように思う。
今が楽しくて、
明日のことなんか考えてなくて、
くよくよしていなくて。

ハートにフォーカスすると、なんだかこんがらがっていた糸が、すべてがほどけていくようです。
すごいな。
やっぱり良心に従うってことが気持ちがいいんだなって思います。


posted by zone88 at 23:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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