2013年10月30日

一ヶ月以上も更新しないという私的な新記録・・・とお伊勢参り

皆さま、ご無沙汰しております。
ちょこちょこと読んで下さっている皆さま、お待たせしました。
(誰も待ってないって????)

一ヶ月以上ブログを放っておいたのは、意図的でもなんでもなく、
ただ・・・、いろいろ動き回っていたので、気がついたら、今になってしまったということです。

伊勢神宮は今年遷宮の年ですが、お伊勢参りに行かれている方も多いのではないでしょうか?
私も、行ってきました。
ついに。
初めて行きました。
感激ですね。

御正宮は、テレビなんかでは鳥居の前までは撮影可ですが、その奥は撮影不可なので、
どうなっているんだろう???って興味津々ですよね。

行ってきましたよ。
驚きましたね。
ある意味・・・・、驚いたということです。

何をお願いしたのか・・・・ですが、
「何もお願いしませんでした」・・・といいますか、決意表明みたいな感じになってしまいました。
事前に私事は荒宮でしかお願いしてはいけないと聞いていたので、
御正宮では、どうしよう???とかった思っていたら、あっという間に順番が来てしまって・・・。

何せ、ものすごい混んでいたので、たどり着くだけでもういいですよ。
ありがたい。
昔の人みたいですが。(笑)
たどりついたときには、何もお願いしていなかったーーーーーーってことになっていました。

あとは、いろいろ別宮とかにも参拝しましたね。

伊勢市駅から五分のところには「外宮」がありますが、そちらは「内宮」に行く前に行ってきました。
外宮も、もれなく、すごい混雑。
どこからこんなに人が・・・・・・・・・・・・・・・・・、というくらい。
案の定、タクシーはつかまらず、バスにも乗れず・・・。
食事する場所も限られており、
お昼近くに訪れたので、もうお昼にありつけずに、お腹がすいたのも忘れるくらいでした。

やーーーーっとタクシーが奇跡的につかまり(それも、伊勢市駅ではなく)内宮へ。


例の、
うどんも食べました。
普段食べたら、きっとビミョウな感じのうどんですが、あの場で食べると「とってもおいしい」のでした。

どなたかが言っていましたが、
「伊勢うどん」をおみやげに買って、家で食べたら、ビミョウだったと。(笑)
まあ、コシがないうどんだし、つゆも特有な感じなので、伊勢参りにぴったりのうどんなんだと思います。

まあうどんはいいとして。

伊勢神宮はものすごい広くて、きれいで、神聖な感じがして、
一言で言うと、
「ありがたや」って感じでした。

でも、現代だから新幹線と電車であっという間に行けますが、
昔の人は一生に一度のことだったんですよね、お伊勢参りは。

村でも代表の人が行ったとか。
それで、面白いエピソードですが、代理に犬を連れて行ってもらったということもあったとか。
ですから、
犬がご主人の変わりに、伊勢まで歩いて行ったということですね。
かわいいというか、なんというか。
犬は、ご主人の願い事を書いた札なんかを首から下げていたのかな?
想像すると、すごいですね。

そんなにしてまで、伊勢は行きたかった、憧れの地だったのですね、日本人にとっては。

弥次さん、喜多さんというのも、お伊勢参りのことを記録したものなんだそうです。
NHKで面白おかしく紹介していました。
wikiで調べてみると、面白いエピソードがたくさんありました。

弥次さん、喜多さんは、お伊勢には「厄落とし」に行ったそうですね。

私も、「厄落とし」できたかな?
結構、いろんな宮をお参りしましたからね。


ということで、お伊勢参りに行かれたことのない方は、ぜひ今年なんか訪れてみて下さい。
御正宮だけでなく、別宮といわれる数々のお宮も、すべて新しくなっていますので、
とーーーってもすがすがしい感じがしますよ。

もう、行くだけでご利益いただけちゃう感じです。
あんな自然の森が日本中に増えてくれたらいいなと思いましたね。

それでは、また・・・近いうちに更新します。(笑)
posted by zone88 at 19:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月20日

理解したいとか、○○・・したいと言うと。

○○したい・・・。
これは、○○という状態にないことを自分が認めているか、そうであると知っている状態・・・って感じ?

だから、いつまでも○○に到達することはない。

理解したい。
これも前提に「理解していない」ことがあるから、理解したい・・・となるわけで。
屁理屈?

まあ、大体言葉ですべてが説明できると思っていること自体が、おかしい・・・かもしれません。。
矛盾しているんだと思います。
ただ、そうであるとか、
すでに知っているとか、
当然とか、
確信しているとか、
それしかないんじゃないかなと思います。

何で?と聞かれたら、
「え?だってそうなんだもん」って感じで。

いろんなことを人から聞いても、理解できることと、そうでないこと、
また、理解の幅も人それぞれであり、感じ方はみんな違う。
誰一人として同じってことはない。

だから、人それぞれの真実があるって感じがしっくりきます。

そして、自分が「既にそうである」ことしか現実にならない。
「すでに知っている」ことしか知らない。

だからそうなればいいということなんですが、
じゃあどうやったら・・・・ってことも、ない。
ただ、そうだとあっさりと認めてしまう。
それは、知っていることと知らないことは同じみたいな感覚。
どっちも同じじゃん・・・と。
「受け入れる」
だって、自分なんだから。
外側だと思っていたものを受け入れる。
だから反対側も受け入れる・・・となる。

知る必要のあることはその時に知るし、知る必要のないことは知らない。
それは、自分の中にあるものに共鳴しているから・・・とも言え、
自分が単なる鏡でしかない、
他人は私を映し出している鏡でしかないって感じとも言えるかなと。
「自分の中にあるものしか鏡は映し出さない」
=共鳴しない。


自分の中には何があるのか?
たぶん、常識にとらわれていたら、常識にとらわれている人に出会うのだろうし・・・。
では、その時は?
鏡の裏もあることを知ること。
それは、
「常識から抜け出ていない」自分と、
「常識から抜け出ている」自分があるのだと観えたら、その時点でニュートラルになるような気がします。
どっちも間違っていないし、正しくもないし、またおかしいわけじゃない。
理屈が成り立たない。
だって、どっちも同じなんだから。
同じというよりも、
どっちももっている。
裏表は一緒。
裏だけ観ていれば表は観えないから。

表裏一体で存在できる。

そんなことが観えてくると、
いちいち相手に対して感じていたことが、たんなる自分の内側を観ていただけだと気付く。
そうすると、反対側にも何かがあると観えてくるから、
それで終わり。
何にも問題はない・・・と。

内側で解決されたから、もうどちらかに傾くことはない。
いうなれば、空にそのエネルギーは戻ってしまった。
対消滅してしまって、ニュートラルなエネルギーに戻った・・・と。

そのニュートラルなエネルギーの中で、新たに自分が好きなエネルギー(調和した塊)を創り出す。
そして、バランスをとる。
調和って美しいものだなと感じるのは、
ただの中庸ではないからなんだと思います。
中道とか中庸とかではなくて、
両面を持っている。
その美しさ。

ドストエフスキーの言葉だったと思うけれど、
「真の人間は善も悪も持っている」みたいな話があったと思うのですが、
そこを超えたところに「美しさ」を見出していたと思うんですね。

まあ・・・・、脱線しましたが、
「既にそうである」状態、
「既に知っている」状態では、
問=答なんだと思います。

何が起こってもOKだと。
それには、すべてを観ることが必要なんだと思います。
光には闇を。
幸せには不幸を。
善には悪を。
ただ観る。
一緒にあわさってひとつなんだって。

そうなると、自分って動いていない感じがしてきます。
そして、肉体に埋没していない。
自己に傾いていない。
相手と自己で一体。

それを観ている肉体を超えた存在が「本来の私」かも・・・と感じています。
それはどの位置にいるのか・・・。
それは空間?かもしれない。
空間って、相手と自分の間にある。
物と自分の間にある。
相対の中にある。
でもそれを超えて、ニュートラルになると相似になる。
一体とも言えるかも。


たぶん・・・・・理屈としては脱線しています。

女性的・・・かもしれません。
「だって、そうなんだもん」って。
「だって、そう感じるんだもん」って。

分割して観ていない。
塊で観ている。
分離ではなくて、すべてを繋げて観ている。

そんな感じで、「既に知っている」のであれば、周りもだんだんそういう状態として現れてくる気がします。
ただ、自分がそうだと認める、そうだと気付く。
そうだと・・・・、観えてくる・・・って感じが近い感覚かも。

私って球体って感じで。
すべてを包んでいる球体。
外と内が逆転して、外=内になる。

なんだ・・・・、観えて(感じる)いたものは、すべて自分の内側だったんだと気付く。
そして感じていたことは表面だけだったから、その裏側も観る。
立体として観る。
そうすると、二元性は崩壊する。
だって塊で、一体化しているから。
違いって、ただ違うだけで比較できない。

自然にいろんな色があって美しいように、それぞれが調和している。
美しい。
美しいってやはりすごいことだなって思いました。

「美しいと感じるあなたの心が美しい」という誰かの言葉がありましたが、
そうだなと思います。
posted by zone88 at 00:34| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 潜在意識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

再び、「軽さ」について

いろいろなものを抱えている時って、どーーーーんと重い感じがするものですが・・・。
悩みがあるとか、いろいろですが。

で、軽いなって感じる時って、重荷が降りたようなときかもしれませんね。
「解決!」とか。
笑ってるときとか。

でも、その解決って思ったことって一瞬だったりする。
持続しないで、また新たに重荷がのしかかってくる・・・。
この繰り返しなような気がします。

これって、二元性の特徴のような気もします。
だから、逃れられない。
しかし、そこから逃れようとして、ネガティブをむりやりポジティブにしようとして、
仮面をかぶってニコニコしてみたりする。
アファメーションしたり、イメージングしたり。

しかし、
この時点で、既に思考が入っているので、どうしても二元性の世界からは抜け出ていない。
マイナスになったものがプラスにバランスされるのは、物の道理なので、
かならずポジティブはネガティブにバランスされる。

こんな考え自体がもう「重い」感じがします。

だから、
この考え自体を・・・・、「捨てる」。
で、
考えないと・・・、
どっちでもいいじゃん・・・みたいな感じになる。
比較しなきゃいいじゃん・・・・と。
意味づけしなきゃいいじゃん・・・と。
ネガティブ?・・・・それって何?とか。
ポジティブ?・・・・それって英語?とか。
「おばか」になってみる。

何ていうか、それに関わらない。
何ていうか、それをいつまでもひきずらない。
いわゆる「手放す」

「手放す」って・・・・どうやって?

「こういうことが起きた」
「こういう風に感じた」
今までだと、手放すこととそれから逃げることを混同していたように思う。
手放すというよりも、消滅させるとかという表現がいいように思えてきました。

ポジだってネガだってどっちだって同じ・・・と。
それを受け入れる。
受け入れる方向が自分の方向であれば、たぶんそれは消滅する。
変化するとか、変容するとか、そんな感じかもしれない。
外へ手放していたら、たぶん、またやってくる。
手放していない感じだから。
「邪魔だから、どっか行って」みたいな感じになっていたから。

すべてがエネルギーだとしたら、プラスだけ受け取るってことはできない。
かならずマイナスがセットだ。
良いとこ取り・・・・みたいな、今までみたいなことはもう通用しないみたいだ。
物事の展開が速くなっている感じがするし、
どんどん透明性が増してきているから、
外に追いやったバランスされていないエネルギーは、どんどん自分の方向に向かって解決されたいとやってきている感じがする。
もう、すべてを受け入れて、バランスさせて、消滅(昇華)してもらうしかない。

もう「私」というエゴは逃げられない。

感覚だけが頼りかもしれないと思う。
思考(低次の思考)が、エゴそのものだから、
考えたりしたら、堂々巡りだ。

軽さが頼りだ。
軽さという感覚。
感覚を身に着ける。

あるがままを受け入れる。
あるがままに観る。

ごちゃごちゃ考えることに、ろくな事はないから。
※これって実体験です。
posted by zone88 at 18:45| 東京 ☁| Comment(21) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

許すということ・・・と、偉そうな感じ

今朝、何気なくテレビを見ていて、感じたことですが。
「すべてを許す」とか「許しましょう」とかってことはよく言われると思います。
そして、それに賛同する人も居る。

でも、それに対して、「偉そう」だと感じる人も居る。
確かに、許す人は許される人を見下している感じにも見えます。
本当にそう思います。
何を偉そうに・・と。

これって、言葉に出して言うと、ひどい誤解を受けますよね。
「あなたを許します」・・・・・って、「あんた、何様だよ」って構図が見えてきそうです。

『奇跡のコース』なんかでも、愛とか許しとかが出てくるし、
とっても宗教的な感じにも捉えられるし・・・。
捉える人次第ですが。
私は、素晴らしいと感じていますが。

何でしょうねえ。
言葉って限界がある感じがしてきました。
「許す」ことと「許される」ことって同じって感じもするので、
どちらが上でも下でもなくて、
それを気づいた人が許されるって感じでしょうか。

どちらにしても、
すべては自分の中で起こっていることであると捉えるのであれば、
「自分の中で起こっている反応を許す」みたいな感じになるんでしょうかね。
相手を許すって、おこがましい感じがとてもしてきました。
外に対してすることではないよな・・・と。

難しいですね。
posted by zone88 at 23:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

輪廻転生、神などの言葉

私の周りには、精神世界系の話をする人は少ない。
一般的に精神世界の話や、信条の話、政治の話はタブーかもしれないけれど。

その中でも、私がここ数年付き合ってきた人は、いわゆる無宗教とか目に見えないものは信じないとか、
理論ですべてが説明がつくと思っている人たちだ。
しかし、その人たちから、「今度生まれ変わってくるときには・・・」とか、
「神様が私を護ってくれた・・・・」などという言葉が出てくることがある。
たぶん、あまり考えてなくて発した言葉だと思いますが。

よく話してみると、
生まれ変わりの話をしている人は、定年退職するまで無宗教で墓参りもしない、そんな人だったらしい。
しかし、定年後、仏教を聞きかじったらしく、「生まれ変わり」の話をし出し、
先日は魂の話まで出てきた。
でも、生まれ変わるらしい・・・、来世ということだ。

もう一人は、仕事上でうまくいったときなどに、「神様っているもんだね」とか、
そんな話が出てくる。
しかし、その人は死んだら「無」になると信じている人だ。

そんなことなので、話が途中で止まってしまうか、その相手の話を聴くだけということになってしまう。
おまけに私は年下なので、一方的に話を聴くだけということになってしまう傾向がある。
ひとりは上司、ひとりは同僚という関係。

退職したおじさんは、「あなたにしかこういう話はできないよ」などと言って、
生まれ変わりの話やら佛になる話やら、いろいろ話をしてくる。
陰謀論とか。
男性的傾向だ。

もうひとりは、女性的だ。
そして、「死んだら無になる」と真剣に思っている人だ。

どちらも教育とか文化とか信念とかそんなものだと思うけれど、
ものすごい信念だなということを感じる。
だから、話をしても、平行線になることが予測できるので、一般的な話になってしまう。

一方、私は、
輪廻はあるけれども、それは時間という観念があっての世界の話で、
すべてが「今ある」と思っている。
だから、ある意味、輪廻を脱するのだと感じている。
神のことは、名称をつけることはできないけれども、生命の、魂の、あらゆるものの根源はあると感じている。
これも、信念かもしれない。
だって、これはある程度知識と思考が入っているからだ。
真にわかっているかといわれれば、「ただそうなのだ」という答えるしかなく、
証明は無理だと思う。
だって、それは、知識や思考や、あらゆる概念や、信念や、そんなものとはまったく関係がなく、
かすってもいないのだから。

人間から人へ。
人から覚者へ。(覚者とは、便宜上の言葉です)
誰もが親から生まれているのもかかわらず、あまりにも違う。
私も教育を受けてきたし、条件的には同じだ。
なのに・・・。

共通なのは、「皆、幸せになりたいと思っている」だと思うけれど。
でも、私は、これも疑問視している。
理由はわからないけれど。

決定的な違いは、「私」に執着していないということかもしれない。
輪廻にしても、「私」が生まれ変わるということで言えば、「私」の延長だ。
「私が幸せになりたい」のであれば、「私」の延長だ。
この「私」(エゴの私)がなくならない限り、闇は消えることがない・・・と私は思う。
だから・・・・、どうすればいいのかと思う。
何が?
皆が幸せになるには、私は、どうしたらいいのか・・・・だ。
この場合の私は、「無私」の私に近い。
それをいつも思っている。
「無私」で生きていくことで、それが波及するのか・・・。
その方法をとろうとして、この日本に、地球に生まれてきた感じがしているから。
ミッションというものがあるとしたら、私にはそれしか浮かばない。
あらゆる方法で人間は進化しようとして、幸せになろうとして、今がある。
そして、何も変わっていないのだと感じている。(本質的に)
変異、ミューテーション、変体、どんな言葉でもいいけれど、
劇的に人が進化するには、どのような方法がいいのか・・・・と、
いろいろ試してきたのだと思う。
最終的には、たぶん・・・・だけれど、「私たちは繋がっているのだと、それに気付いてもらう為に、人の内部から変容をもたらそう」と
思っていろいろな人が転生してきているのだと感じている。

おこがましい・・・・と言われるかもしれない。
でも、皆と一緒にその変容をしていきたい。
どうすればいいのか・・・・・、そればかり思っている。

とりあえず・・・、
いつも笑顔でいようと思う。
いつも光100%でいたいと思う。
いつも「今」を精一杯生きたいと思う。
どんなことにもポジティブでいようと思う。
強い意志を持とうと思う。
叡智を身に着けようと思う。
そして、無条件の愛でいたいと思う。
posted by zone88 at 01:11| 東京 ☀| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月30日

皆が面白いと思うことに興味がわかないのは・・。

あるきっかけで「コーザル体」のことを調べていました。
これは、思考、特に抽象思考や高次の思考のことを指すようですが、「神智学」を深く学んでいないので、
詳しいことはわかりません。

本(「神智学大要」)もまだ1巻をやっと、ちら見程度にわかった感じなので、
これからもっと理解していきたいと思っています。

ということで、何でコーザル体の話になったかといいますと、
思い当るふしがああったからです。
それは、20代に澁澤龍彦さんの本を読みはじめたあたりからそれは始まりました。
主に美術関連が多かったのですが、それらに触れてから、フランス文学に触れ初め、
フランスの現代思想を知り、構造主義やポストモダンを知り、哲学に傾倒しはじめ、
形而上学とよばれるものに興味を持ち始めました。

それからというもの、友人と話していても、あまり面白い感じがしなくなってきたのです。
それまでも美術系の話などは、あまり一般向けではないので、芸能界の話とかはつまらないなって思っていたのですが、
それに拍車がかかり、一般的なストレス解消的なこと、たとえばカラオケとかアウトドアとか、
井戸端会議的なこととかに、まったく興味を示さなくなりました。

それから、欲望に関してですが、妙に欲望に突き動かされる、いわば欲望が衝動となって
行動することが少なくなっていきました。
だから、「時間を売ってお金を稼ぐ」ことに疑問を持ち始め、嫌気がさしてきました。
いわば、どうでもいい・・・と。

行動の要因は、興味、探究、というように変わり、
友人関係も変わっていったように思います。


ここで、コーザル体ですが、「肉体」の上あたり、ちょうどかぶさる形であるボディが「エーテル」いわゆる「気」のボディといわれるものです。
その上が「アストラル体」、その上に「メンタル(精神)体」があり、その上に「コーザル体(ここから魂の分野)」。
下位にその上位の衝動みたいなエッセンスがある感じです。


神智学大要第1巻にある「図表13人間の構造」によると、



アーディ                                               モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アヌパーダカ                                       モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
アートマー(涅槃)            (霊)                    モナド=父なる神の胸中なる子なる神
  ↑         ↑
ブッディ                  (直観)                   再生する魂(高我)
  ↑         ↑
高位天国  コーザル体       (観念化)
  ↑         ↑
下位天国  メンタル体        (具象思考)         低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
アストラル  アストラル体      (個人的感情、衝動)   低我=マスク・仮面
  ↑         ↑
物質     物質体・エーテル体  (肉体による行動)    低我=マスク・仮面


上記のような表になります。
興味のある方は、「神智学大要」をお読み下さい。


この表を見ると、私自身がたどってきた感じがよくわかりました。
大体、個人的感情、衝動、具象思考、観念化のあたりを行ったり来たりしていたんだなとわかります。
一般的な場合は、下位のメンタル層の精神が、その下のアストラル界の欲望と複雑にからんで、
それが衝動となって行動に移っていることがわかります。

そこから抜け出すために、「瞑想」を始めたり、スピリチュアルに走ったり(笑)するんですねえ。
一般的だと、哲学とか心理学など学問系にも行きます。
なので、この段階になると、仮面をかぶったメンタル界層とか、たまに直観がきたり、
観念とか抽象思考とかをしたりするんですね。


私の場合は、思考の限界をとても感じていました。
これ以上は考えられない、調べても、探究してもわからない。
直観だけが頼りってことになってきました。
それと、抽象思考になって、ぐるぐると堂々巡りとか、そんなパターンでした。

そんなことで、今は、クリシュナムルティの「時間の終焉」を読んでいます。
一端、その枠から外れるということをしようと。
それから、「頭」(思考、知識、経験など)に意識を向けないで、ハートとか魂の方に意識を向けるようにして、
考えないようにしています。
あるパターンから抜け出るには、また、囲い(自分で創っている)から抜け出るには、
思考を使ってしまってはダメだと感じたからです。

そんなことをしていると、何と、「子供」みたいになっていくんですね。
子供のような純粋なもので動いている感じというか、動機ってものがない感じなんですね。
あるとすれば、良心とか、そんなものです。

ハイアーセルフとか潜在意識と一体化するとか、繋がるとかって、
頭とか知識からではダメなんですね。
やはり、実感するものなんだと思うわけです。

今は、どういう状態かと言うと、
低我の部分が上がって、高我の部分が出来るだけ下がってきている感じ(一時的)なんですね。
お互いの協力が必要な感じで。
たぶん、合体(笑)するのは、コーザル体あたりからなんでしょうか。
もしくは上位メンタル体あたりかも。

これが、スピ系で言う次元の構造ってものかもしれませんね。
三次元というのは、肉体次元ってよく言われますし。
五次元ってどのあたりなんでしょうね?

体感で言うと、上記のピラミッド構造とあわせて、円というか、同心円を描く感じにもなると感じています。
どんどん拡大していく感じですね。
意識の拡大って、こんな感じを言うのだと思います。

というわけで、言葉とか思考とか知識とかは、もはや通じなくなる地点がやってくるのは確かだと思います。
でも、それを体感して、わかりやすく言葉にしていくってことも、誰かの役にたつことかもしれないと思っているので、
今、こうして文字にしている訳です。

クリシュナムルティによれば、思考とか説明とか、そんなことをした時点で、
そのパターンに(囲いの中)に戻ってしまう・・・ということでした。
だから説明は無理かもしれませんね。
実感するのは、本人でしかなく、誰も替わってあげられない。


世界中の人の意識が拡大したら、世界ってものすごく、劇的に変わるんだろうと思います。
私もその世界のひとりであり、ひとりひとりで世界は出来ている。
水の波紋が広がるように、その一滴となるように、生きていきたいと思います。


posted by zone88 at 00:47| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

自分とか私の違和感

最近、「私の場合」とか「私は」とかという言葉を使うことに違和感を覚えてきました。
それは、たぶん思考とか考えている時には思いもよらなかったことです。

これは、昨年から自分の中心を頭(脳、知識、経験など)からハート(心とか魂とか)の方に移行してからの感覚です。
私なるものはいないんじゃないのか?っていう感覚になってきたんです。
特に肉体とか、所有の感覚とか、執着の感覚とかの私です。

確かに肉体はあって、見えていて、こうしてパソコンのキーボードに触れているという感触はあるのですが、
他と別個の私という感じに違和感を覚えます。
だから、他と一体化した私という言葉にも変な感じがします。
すべての一部である私っていうのも何か違うんです。
じゃあ、全てであるの?っていうのもまた違う気がして、私たちっても何か・・・。

でも、
ただ、「私」っていう感じ方が変わってきているのは確かです。
孤独感を覚える「私」はなくなっている。
何かにしがみついている「私」とか、
何かを気にしている「私」とか、

では、どういう「私」感覚なのかというと、
何かと溶け合っている感じなんですね。

たぶん、ハートだけを感じているんだと思うんです。
ハートの感じって、「今」しかなくて、
それと一体化してしまうんです。
だから、「私」という別個のものがなくて、
何にでもなれる感じなんです。
それを観ている何かもいない。

ただぷにぷにしたハートが確かにあって、他はあまり存在感を感じない。
それも、そのハートっていうのが実体があるわけではないんですが、
その方がハート以外よりも現実感がある。

面白い感じです。
思考を通っていない感じで、ダイレクトそのものを直ちに感じる・・・これもまだ回りくどい言い方ですが、
やはり、境界がないっていうのが一番近い感覚かもしれません。

私=あなた・・・・とかってことがよく悟り系で言われますが、
またすべてが私であるとか、
すべてが神であるとか。

そういう感じはまだなくて、
ただ今までの知識の塊の私ってものにはとても違和感を感じ、それではないと確信しているって感じかもしれません。

そして、それって、とても軽くて気持ちがいい。
軽快な感じで、
明るくて、
単純で、
純粋で。

でもどっしりと地に足はついている。
確かに地に足をつけて、しっかり生きているんです。

まあ、ハートにセンタリングすると、
楽〜〜〜ちんです。
そして、嬉しい感じとか、
楽しい感じとか、
ニコニコしているとか、
そんなものが出てくる。
自然に。

本当はこっちなんじゃないのかな?現実って。
そんな感じがしています。

いろいろ知識でがちがちになっているよりも、
それらを地で生きている感じで、
でも、複雑じゃなくて、
とても単純だった。

それぞれが感じることが真実なんじゃないかなと思うので、
私はこの感覚を大切にしていきたいと思います。

こんな思いに皆がなったら、素敵だろうになと思います。
だって、すべてのことが大好きになるんだから。
一緒にいるのが嬉しい。
ただ居るだけで嬉しい。

ハートとハートでつながったらどんなに素敵だろうか。
みんながみんなのことが好き。
子供の頃ってそうだったように思う。
今が楽しくて、
明日のことなんか考えてなくて、
くよくよしていなくて。

ハートにフォーカスすると、なんだかこんがらがっていた糸が、すべてがほどけていくようです。
すごいな。
やっぱり良心に従うってことが気持ちがいいんだなって思います。


posted by zone88 at 23:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月24日

信念、真実、道化師としての笑い

私は、大体において「来る者拒まず、去る者追わず」という感じで人と付き合っているような気がします。
そして、自分の信念は相手に押し付けたくない。
だから、勧誘というものにはひどく嫌な感じを受けるので、勧誘ということはしません。
そして、おすすめ!というようなこともしません。

好きな相手からいくら好きなものを勧められても、一時は好きになったり興味を示したりしても、
後で必ず離れてしまうからだ。
自分から進んで興味をもったものしか、残らない。


なぜか、「あなたとは話が合う」と言われた人と飲み会に行くこと数回・・・・。
私は・・・、あまり話が合うとは思っていないのですが、相手がそういうものだから、
何となく付き合ってしまう。

私としては、相手に、「もっと世界を拡げた方がいいのではないのか」と思ったりする。
でも、そんな話はしないのですが。
最近は誰かの受け売りの話というものにあまり反応しなくなっているので、
何何の本にはこんなことが書いてあって、
こんな奇跡的なことがあって、
この人の言っていることは真実だ。
とか、
とか、
その手の話には疑問を抱いています。
だから、私の信念とか、今信じていることなんかもいつか変わってしまうのではないかと思っています。
だから、これしかないとか、
これが最高だとか、
これが真実だとか、
そんなことは、言えない。

その時に、
その人にとって、
真実である。

おわり。

ということになります。

なので、相手の信念と自分の信念と照らし合わせてどうのこうのという、一種の水掛け論的な話には、乗らない。
どちらかというと、対話形式。
コミュニケーション。
コラボレーション。

相手の経験を自分の経験とする。
相手の体験したことを喜ぶ。
それは、私というものはないと感じているからだ。
相手が経験したことは、「わたしたち」の経験だと感じているからだ。

それにしても、話をしていると、やはり感情が出てくる。
その感情は、押し殺すことなく、その場で表現する。
喜怒哀楽。
そして、その場でおわり。
連鎖はない。
その時の真実。
「今」の話、「今」の真実は、「今」で完結。
出来事も然り。

だから、それぞれの真実を体験し、
世界が、
人類が、
進化しているのだとしたら、
それでいいのだと思った。

ただそれだけであり、
未知が既知となり、拡大するのだろうか。

わからないけれども、
真実は、
それぞれにある。

その人が、その時に、そう「今」感じたことが真実であり、
真実は変化する。
変化していることが真実なのだろうか・・・と思う。

できれば、
笑って、
楽しく、
「今」を生きようと思う。
それは、ただ、愚痴っぽいことや、悲しげなことや、そんなことを聞くのが嫌になってきたから。
そんなことも、あんなことも、
ジョークにしてしまえ!っていうノリがあるかもしれない。

自分の人生で言えば、「悲惨過ぎて可笑しい」とか。
「演技にはまりすぎていて、可笑しい」とか。
人のことは笑えないけれど、自分のことだったら笑えるから。
バカになるって感じで。

頭から、マインドから、知識から離れて、バカになってみると、
意外と楽しい。
スッキリして、軽くって、可笑しい。
ハートとか、ハートの奥にあるもっと高い何かは「笑っている」から。
だから、「笑ってしまえ!」って感じが伝わってくる。
というか、「笑える」。

何ものをも乗り越えていける「笑い」とは、おもしろいとか、お笑いとかの「笑い」ではない。
軽快な笑い。
道化師の笑い。
ジョーカーの笑い。
何者でもあり、何者でもない者の「笑い」だ。
軽さなのだ。
軽さ。
重力に縛られない、無重力であるための「笑い」
仮面の下には「笑い」が潜んでいる。
仮面をはぎ取れ。

それは時間と空間から自由になって、ただ笑っている。
言葉はない。
ただ、気を付けないと、その笑いはシャープさを持っている。
一瞬のすきをついてくる。
緊張と弛緩の同居だ。
かたまって、ゆるんでいる。
真剣であり、ジョークでもある。

どんな笑いか・・・・・。
ご想像のとおり。

鏡のように、
道化師のように、
仮面のように、
あなたの思ったとおりを映し出す。
ワイルドカード。

ふふ。

Joker_black_02.svg.png

または、
トリックスター、
愚者。

The Fool

RWS_Tarot_00_Fool.jpg

posted by zone88 at 03:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

とても変なJAPANデス。 Pet Shop Boys - Flamboyant

欽ちゃん&香取慎吾の「新!仮装大賞」がなぜかPSBのPVに・・・!!!
うううぅ(泣)
PSBのファンなのに、このPVを知らなかったのでした。
ニール・・・ごめんなさい。
(ここであやまってどうするんだ)



日本語が何だか・・・翻訳機で訳したようになってるよ。
CMも何か、日本的なんだか、何なんだか???

新宿が舞台です。

レモネード♪・・・・「ハイ!」。。。 めちゃくちゃ日本語読み。
TELEVISION 寿司 広告
ロマンスが死んでいるがある
私はペットショップの男の子を愛す
ボクシーカー(BOXY CAR)・・・・って、めちゃくちゃ日本語読み。
幸せ!
!!火炎式

めちゃめちゃ・・・・です。
これって、外国から観た日本ってことなのか???

まあ、しかし・・・、日本の広告もやたら英語が多いけれど、意味不明なものが多いかもしれないし。
外国人から観たら、苦笑!!ってものがTシャツに書かれていたりしますから・・・。
同じですね。



でも、ニールとクリス・・・かわいいです。
特に「レモネード♪」って手を振っているのとか、
シャンプーなのか、何なのかわからない公告で「幸せ!」とか。


でも、サウンドはGOODです。
さすがです。

こういうのが好きなんです・・・ねえ、ニール様。
HAPPYにしてくれて、ありがとう。

ジョーク、ジョーク。

きっと、来日していた時にテレビを見て、欽ちゃんの仮装大賞を観たんでしょうね。
こういうの好きそうだし、二人共。

しかし・・・・、欽ちゃん風に言えば、「何でこうなるの?」ってな感じですねえ。(笑)


ちなみに、Flamboyantの意味は、


1 〈色彩などが〉燃えるような, あざやかな, けばけばしい, 〈文体などが〉きらびやかな, 華麗な, 〈人・行為が〉はでな, 大げさな.


2 ((しばしばF-))《建築》フランボワイヤン様式の, 火炎式の:15-16世紀フランスのゴシック建築.

ということは、「派手?」
でも、PVの最後に「火炎式」と出てきますので・・・、ゴシック建築のように派手?大げさ?
確かに、すべて大げさ・・・かも・・・です。
CMも。
でも、欽ちゃんの仮装大賞は派手ではないでしょう。大げさにも思えませんがねえ。
理解不能です。


ととと、、、ところで、
今日、電車の広告で欽ちゃんの本を見ました。
ダメなときほど運はたまる』というタイトルでした。

欽ちゃんつながりってめったにないことですから、何かありそうです。
何だろう???
笑い?
PSB?
何?
何?
本を買って読んでみるしかないですかねえ。
何か、きっと、ヒントとかメッセージが書いてあるかも・・・です。

だって・・・・、PSBのPVを観なかったら、欽ちゃんの本には・・・、目がいかなかったんですから。
何なんだろう?
ジョークみたいな話です。
私の人生はジョークなのか?

posted by zone88 at 01:08| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月14日

ピアノ組曲「ドリー」-ガブリエル・フォーレ

フォーレは19世紀のフランスの作曲家ですが、
この「組曲ドリー」を初めて聴いたのは、カティア・ラベックとマリエル・ラベックの姉妹の演奏でした。
ちょうど、ラジオでフォーレとサン・サーンスの特集をやっていた時でした。
とても印象深かったので、今でもそのラジオのパーソナリティの語りがよみがえってきます。

ドリーという名は、フォーレがかわいがっていた子供の愛称です。
エレーヌ・バルダックというのが本当の名前だそうですが、その子供の名前をなぜ思えていたのかいうと、
ラジオのパーソナリティが解説していたからなんですね。
それだけこの曲は印象深い。
もともとドビュッシーなど19世紀の音楽やアートが好きなこともあって、
その時代の風が感じられるものにはたぶん反応していたんだと・・・。

久々にドリーを聴きたくなって、youtubeでいろいろ聞き比べてみたところ、
マグダ・タリアフェロさんの演奏が素晴らしかった。
たぶん、当時聞いたラベック姉妹のよりも良かったんです。

Wikiによると、
マグダ・タリアフェロ
Magda Tagliaferro, 本名:Magdalena Maria Yvonne Tagliaferro, 1893年1月19日1986年9月9日)はブラジル出身のフランスピアニスト

・・・ということです。


ま、ともかく、この「ドリー」という曲は、とても楽しげで、明るくて、子供のように純粋な感じです。
それに連弾(ピアノ2台)の曲なので、またまた楽しげです。



フォーレの「ドリー」は子供たちのピアノ練習曲としても有名なんでしょうか、
youtubeではその類の動画がわんさか出てきます。
なので、それ以外を探すのは大変なくらいです。

なので、 Fauréの名前で検索しまして、
このマグダ・タリアフェロさんの素晴らしい演奏に出会ったわけです。
フランス音楽を専門的にやっていた方のようで、なんと93歳まで長生きされています。
92歳のときの演奏の動画もあり、すごいなと思いました。

上手いはずだ。
調べてみると、フォーレに要望されて、演奏旅行にも同行したということです。


まあ、そんなことよりも、この曲はフォーレのドリーに対する愛情がとても感じられる曲なんですね。
普遍的というか、子供に対する愛情とか、子供自体の明るさとか快活さとか、純粋な感じがいいんですね。
大人になると忘れてしまうもの。
そんなものがこの曲には現れていて、真珠のような感じがしますね。


この曲を聴いていて、「ああ、あのときの感動が再び訪れてきた」と思いましたね。
ドビュッシーなども何度聞いて新たな感動があります。
音楽とかアートって飽きてしまったらそれでおしまいかなって思うことがあります。
短命なものは、やはりそれなりの理由があるのかもしれません。
反対に息の長いものも、やはり理由が・・。

いつ聴いても、いつ観ても、新しさがあり、感動があるというのを「普遍」ってよんだりするのかもしれません。
時代を超えるというのか、時間がない空間に存在することができるんでしょうね。
曲もそうですが、ピアニストとか演奏家も。
そしてアートも。


この曲がきっかけになって、いろいろなものが戻ってきた感じがしています。
戻るとか、思い出すとかです。
それは、本来の自分を思い出すということです。

圧倒的な光の中にいる自分。
すごい幸福感というか、子供のころの幸せ感です。
以前は、たぶん一瞬だったと思うんです。
今は、いろいろ体験した後のことなので、一瞬ではないんですね。
それがずっと続いていたんだということに気付くんです。

昨日、クリシュナムルティとボームの対談「時間の終焉」という本を購入したので、
幸福な時間と空間の中で、読もうと思っています。

posted by zone88 at 21:11| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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